「宝島社」絶好調の理由、女性誌付録だけじゃない!
話は07年にさかのぼる。ご多分に漏れず宝島の業績はジリジリと下降していた。
「宣伝費、販促費削減を繰り返し」(蓮見清一社長)、最終利益こそ10億円以上の黒字を確保していたものの、売上高は03年8月期の210億円から07年には30%以上もダウンしていた。
ここで蓮見社長は決断した。引退して趣味の馬術競技に専念する夢を封印。「全面的に現場復帰し、雑誌事業を限りなく成長させてやろう」。広告担当者からは、同一ジャンルでいちばん売れている雑誌にしかこれからは広告が入らない、という声が届いていた。「ならば、一番誌になるしかない」(蓮見社長)。
さっそく全社に「一番誌戦略」の号令をかけた。折しも早稲田大学大学院でマーケティングを学んでいた広報課の桜田圭子氏が「マーケティング会議」を提案。ここが一番誌戦略の推進役を担った。
マーケティング会議は月1回、1誌ごとに開かれる(11誌)。メンバーは社長のほか営業、広告、編集、広報、宣伝等の担当責任者。会議のテーマは決まっていない。発売した号の反省から次号の表紙、価格、宣伝まで自由に議論する。社長が出席しているから、決まれば実行は速い。
たとえば、桜田氏の提案で07年9月発売の『インレッド』は880円から650円へ、230円も値段を下げた。「食品や雑貨と同じように価格弾力性をシミュレーションした。結果、部数は3倍になるとの試算が出た」(桜田氏)。
当時、『インレッド』は12万部売れていた。実売率もいい。しかし、同ジャンルで一番誌でないがゆえに広告が減っていた。一番誌になるには価格が弾力的であっていい、というのがマーケティング会議の結論だった。
結果、『インレッド』の部数は3倍になり、現在は70万部を超えるところまで来た。