子どもを追い詰める「間違った」期待のかけ方 期待という言葉の捉え方が間違っている
期待するというのは、じつは大変に勇気がいることだと思っています。なぜなら、「期して待つ」ということは、何もアクションをしないということだし、ただひたすら「相手を信じる」という忍耐力が必要になるからです。
もしかするとそのとき、一見して何の変化もなく、「これからも何も生まれないのでは……」という恐怖すら覚えるかもしれません。目まぐるしく変わっていく、この変化の速い時代にあって、本当にうまくいくかどうかわからない、何も起こらないかもしれないことを、ただ待って、そこに投資するのです。本来の「期待」というのは、勇気の象徴だと言えるのではないでしょうか。
そうなると、「期待しなければいいのでは?」という意見も出てきそうですが、期待をかけないのもダメ。ですから、親は正しい期待のかけ方について知る必要があるし、勇気も必要です。では、それはどういうふうに練習をしたらよいのでしょうか。
日常生活の中で「忍耐」を学ぶ
日常生活でのちょっとした沈黙にも耐えられない人がいたら、その沈黙に耐える、あるいは「沈黙でもいいんだ」という意識に変えることが1つのトレーニングになります。
SNSで言えば、「既読」になったあとに返事が待てない人は、「それでも別にいいんだ」という意識に変えること。ちなみに、SNSでの返事については、中高生の間でそれがいじめの要因にもなっていることを思うと、現代人の「待つことの難しさ」を表しているように感じます。
人が何かを生み出すときというのは、誰かが何かをじっと見守り、待つことで起きるのではないかと思っています。その空間を社会全体で作れるようになるといいですね。
そのためには、お互いが「自分らしく」あろうとすることが重要だと思います。お互いへのリスペクトがあれば、「期待していたのに!」と勝手に期待して怒ることもなくなるでしょう。「まだ子どもだから」と親は考えがちですが、幼いといえども「一個の人格」としてきちんと捉えることが大切なのだと思います。
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