ヨシダナギが1000万円を投じた「意外な被写体」 アフリカ少数民族の撮影で有名になったが…
「なかには、自殺未遂を繰り返した過去を持ちながら、ドラァグクイーンになったことで救われたという人もいました。そういう大変な思いをしたり、コンプレックスを乗り込えてきたからこそ、今、こんなにも美しく見えるんだなと感じましたね。
私も10代のとき、死にたかった時期があったので、似たような立場だった人が今、こんなに華やかに輝いているということに勇気づけられたし、人生って諦めちゃいけないんだなって励まされました」
撮影は、順調に進んだ。モデル経験のない少数民族と違い、クイーンたちはパフォーマー。撮影に慣れている彼女たちとコミュニケーションをとりながら、「よりきれいに見える角度を探すのが面白かった」と振り返る。
ただ、内心では大きなプレッシャーを感じていた。これまで、少数民族を逆光で撮影して出す鮮やかな色味が、「ヨシダナギの光」だと評価されてきた。ニューヨークでは、クイーンたちの美しさがより映えるロケーションとして室内を選んだが、室内で「ヨシダナギの光」を出すことはできないし、少数民族の姿を際立たせていた自然の風景もない。
撮影をしながら、「いい写真が撮れている」という手応えを感じつつ、自分の中で「ヨシダナギの作品としてはどうなのか?」という問いが頭から離れることはなかった。
戦うドラァグクイーン
ニューヨークでの撮影から4カ月後、同じスタッフでパリへ。このときも、ヨシダナギがインスタグラムでモデル候補を探し、サポート役の現地コーディネーターがオファーを出すという方法を取った。パリはニューヨークよりもアポが取りやすく、プロからセミプロ、アマチュアまで12人のクイーンを撮影することができた。
パリとニューヨークでは、ドラァグクイーンのあり方も違っていた。まだ、ニューヨークほどショービジネス化されておらず、プロのドラァグクイーンとして食べているという人は2人だけ。その2人は、フランスのキャバレー文化の中に居場所を見つけていた。
インタビューをしてみると、ニューヨークの6人と違い、「私にもできるかなってメイクしてみたら、できたの。だからまだ始めて半年なの!」というような比較的穏やかなノリでドラァグクイーンにたどり着いた人たちが多かった。
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