まもなく消滅、「ドアだらけ」通勤電車の功罪 ラッシュ時の混雑対策として期待されたが
5000系を5扉で使用するのは平日の朝ラッシュのみで、大阪方面のラッシュ対策として使用されている。京阪の時刻表にも使用列車が表示されているが、5000系が検査などで運用を外れると他の車両が使用される。
明治時代からあった多扉車?
ところで、日本で扉の数が多い車両は明治時代から存在した。
明治時代では乗客が乗る客車を蒸気機関車が牽引していたが、この客車の中には自動車のリアシートのように、車体の幅いっぱいに座席を設けた車両があった。これは馬車の構造に由来したもので、現在の多扉車とは違う経緯で「ドアだらけ」となったものだが、一例として1875年に登場した6500形という客車では、片側に10カ所の扉を設けていた。
この客室の構造は、鉄道博物館にある明治時代の客車のレプリカで現在も見ることができるが、大勢の乗客が着席できる一方で、客室内を移動できない欠点があり、トイレの導入などで客室内の移動が必要になると、この構造は定着せずに終わっている。
多扉車の話に戻すと、首都圏では1990年にJR東日本の山手線で6扉車が、東京地下鉄(当時は営団地下鉄)日比谷線で5扉車が導入され、1991年には京王電鉄(当時の京王帝都電鉄)でも導入された。JR東日本では横浜線や京浜東北線・根岸線のほか、中央・総武緩行線と埼京線に6扉車が導入され、山手線の6扉車を転用した埼京線をのぞき、6扉車の新車が投入された。
日比谷線では相互直通運転を行う東武側でも1994年に5扉車が導入されたが、多扉車の導入が最も新しい路線は2005年導入の東急田園都市線だ。こちらも地下鉄半蔵門線と東武伊勢崎線などの直通運転を行っているが、こちらは東急だけが6扉車を導入した。
京阪5000系では全車両が5扉車だが、首都圏では京王6000系の5扉車が編成単位で作られたのを除くと、1編成・1つの列車に1~4両を組み込む程度とされた。これは駅の階段・出入口に近い場所に集中する混雑を緩和するためで、ピンポイントな導入だった。
地下鉄日比谷線関連では編成の両端2両ずつを5扉車としていたが、これは日比谷線の駅の構造上、ホームの両端に改札口や階段を設けた駅が多いためだ。京浜東北線・根岸線では6号車に、中央・総武緩行線では5号車に6扉車が連結されたが、これも階段の位置に合わせたものだった。
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