大阪心斎橋に「夜だけ開く診療所」ができたワケ 左半身麻痺の精神科医が目指すもの
「それまでは、お医者さんに対しても自分のプライベートな話は言いたくなかったんです。でも、自分が心を開いて話をしなくちゃいけないと思って片上先生に話すようになったら、すぐにわかってくださって対応がすごく早かったんです。先生を信頼して、思い切って休んでよかったなと思います」
休職後、仕事にはすんなり復帰できたが、眠れないため睡眠導入剤を処方してもらいつつ、臨床心理士のカウンセリングを受けている。
片上さんは来るもの拒まず。患者はもちろん、噂を聞いたテレビや新聞などメディアが取材に来ても、ていねいに応対している。アウルクリニックの存在を多くの人に知ってもらい、精神科に来るハードルを少しでも低くしたいと考えているからだ。
「この間、風俗嬢が僕のことを、“先生っていうより、居酒屋で出会ったお兄さんみたい”と言っていて、まあまあうれしかったなぁ」
“医者っぽくない”と言われて喜ぶ片上さん。型破りな精神科医は、どうやって誕生したのか─―。
超チャラい少年が医学部へ
片上さんは1984年、神戸市で生まれ育った。父はがん専門医、母は内科医、公衆衛生医を経て、現在はリハビリテーション病院で、内科・リハビリテーション科の勤務医として働いている。9歳下の弟も医者になった。
現在、宝塚市立病院で副院長として勤める父の片上信之さん(65歳)に、幼いころの息子の様子を尋ねると、いきなり笑いだした。
「ハハハハ。まあ、ヤンチャな腕白坊主ですね。活発で親の目の届かないところで、悪さをすることもあったようです。人に迷惑をかけないように、しつけは厳しくしようと思って、寝るときによく家内と交互に、童話を読んで聞かせていました。人を助けなあかんとか、世の中のために頑張ろうとか、教訓的なことをやさしく教える日本昔話とかです。
あとは、まったく人見知りをしなくてね。誰とでも話す反面、寂しがり屋のところがありました」
幼いころから1度も「医者になれ」と言ったことはないが、自分たちが働く姿は見せていたそうだ。
両親がアメリカのハーバード大学に2年間留学したとき、片上さんはまだ保育園児だったが、向こうでの光景はよく覚えているという。
「ラボ(研究室)に遊びに行くとバーッと並んだ机の上に顕微鏡があって、無機質でカッコよかったですね。医者はいい仕事やなとは思っていましたよ。自信ありそうだったり、ロジカルにしゃべるところとか」
帰国して、小学生になるとランドセルを背負ったまま公園に行き、よくサッカーをした。友達とささいなことで殴り合いのケンカをするなど、ガキ大将でもあった。