「鉄道廃線跡本」の編集者が語る大ヒットの秘訣 自分の「好き」が大切、発売前から注文殺到
――紀行作家の宮脇俊三さんも執筆や監修をしていました。
この本の前、1992年に宮脇さんは『失われた鉄道を求めて』という本を出している。鉄道ファンではあるけれど、マニアックな狭いところに入らず、鉄道の旅をとてもいいタッチの文章で書いていて、最初から一緒にやっていただきたいとお願いした。
1巻目の夕張鉄道から、毎回取材には同行した。当初はまだお元気で、廃線跡で藪漕ぎをしたり自転車に乗ったりしていたのだが、次第に辛そうになり、最後の10巻目では北海道の狩勝峠旧線取材の予定を組んでいたが直前に倒れられ、私一人で撮影に行った。
1巻目で評判を得たのを見て、宮脇さんから「大野さん、金脈を当てましたね」と言われたのを、よく覚えている。長い編集者としての経験から来る、感覚だったのだと思う。
列車が走っていた往時を想像する
――何カ所ぐらいの廃線跡を掲載したのですか。
1冊に60カ所載せているので、単純に計算して600カ所ほど。ただ、1つの路線でも区間を区切って何カ所も取り上げているところがある。
鉄道が廃線になった理由には、大きく2つある。
1つは、単純に利用客が減って赤字になり存続できなくなったもの。これには、輸送が鉄道から自動車に変わったからということも、地域の産業構造が変化したからということもある。
もう1つは、近代化の過程で速さを求め、新しくトンネルを掘ったり、技術革新でスイッチバックなどしなくても峠を登れるようになったりして、新線を建設して不要になったもの。
廃線になったところだけでなく、計画され建設が始まりながら途中で建設中止になって開業しなかった未成線もあった。
――大野さん自身で取材したのは何カ所ですか。
どうしても行ってみたいところはほかの人に頼まず自分で行くようにしたので、50カ所ぐらいは行っただろうか。(笑)
各巻、表紙の写真は自分で撮ったものを使っている。
例えば、北陸本線の親不知(おやしらず)付近のルートが変更されて廃線になった区間。親不知という地名は、山から海に落ち込む切り立った海岸線の厳しい地形で、親も子も互いを気遣っている余裕がないほど自分が歩くのに必死という意味。その断崖に鉄道の線路を敷くという、「難所中の難所」の区間だった。
親不知の海岸線にいくつもトンネルが続いていた箇所は、現在はトンネルを通り抜けることができないので、国道や遊歩道で遠回りしながらトンネルを確認していく。
「このトンネルをC57に牽かれた旅客列車が、D50牽引の貨物列車が勢いよく飛び出してきた往年のシーンがよみがえってくる」と書いているように、列車が走っていた往時を想像しながら遺構を探すのが、廃線跡を訪ねる醍醐味だ。
それには、鉄道線のある旧い地図と現在の地図を並べて旧線のルートを探る事前の準備が必要になる。実際に歩いて地形を見ながら、工事の困難さに思いをいたす。時には、その路線が敷かれた時代背景や地域の状況も調べる。そうした歴史をひとつ1つ紐解いていく楽しさが、廃線跡にはある。
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