日本が世界有数のバスキア大国と呼ばれる理由 没後にようやく評価され始めた真の芸術性
バスキアが作家として活動を始めた1970年代後半のニューヨークは、ラップ、スクラッチ、ブレイクダンスといった音楽とダンス、そして、街角の壁にスプレーなどで独自の落書きをするグラフィティーアートなど、黒人やスパニッシュ系の若者によるストリートカルチャーが誕生した時代であった。
ハイチ系の父親と、プエルトリコ系の母をもつバスキアは、生まれ育ったブルックリン界隈の喧騒の中で、高校の友人とともにSAMO©という名でグラフィティーの活動を始める。
この時すでにバスキアの才能には突出したものがあり、とくに、彼が壁面に残した文字とその詩的な表現――つまり言葉は話題を呼び、バスキアの名は一躍ニューヨーク中に広まったのだ。間もなくバスキアは、グラフィティーでの注目を足がかりに、ニューヨークのアートシーンに躍り出ることになる。そして、有力画廊の戦略的な売り出しもあり、瞬く間に時代の寵児となったのだ。
バスキアの死から4年後…
しかし、アメリカ国内の美術館を取り巻くアカデミックな世界での反応は、おおむね冷ややかであった。バスキア独自の創造性を正当に評価することの必要性がようやく認識されたのは、バスキアの死から4年後のことである。
1992年、ニューヨークのホイットニー美術館で開催されたバスキアの個展において、それまで、1980年前後に登場した新しい絵画の動向「ニュー・ペインティング」の中にひとくくりにされていたバスキア芸術が、豊かな独自の創造性を持っていること、また、作品が内包するアフリカ的な性格に対する認識が喚起されたのである。
その後、バスキア再評価への動きは緩やかに進み、21世紀を待ってようやく本格化する。昨年のパリ、ルイ・ヴィトン財団、今年6月のNY、グッゲンハイム美術館、今回の日本で初めての大規模展の開催――今もなお、バスキア再評価の動きは、その渦中にあるのだ。
さて、日本が世界有数のバスキア大国と言われるのは、公立美術館5館が油彩大作を収蔵しているという事実にある。しかも、2年前、ニューヨークのオークションで、アメリカ人作家の作品としては過去最高額の123億円で作品を競り落としたのも日本人(前澤友作・前ZOZO社長)であった。今回の展覧会にも、それらの作品はすべて網羅されている。
一方、アメリカ国内の美術館はどうかと言えば、近現代の主要作品を多数コレクションしていることで知られるMOMAでさえ、バスキアの絵画は、ドローイングやシルクスクリーンも合わせてわずか10数点である。
個人コレクターがその多くを所有するバスキアの作品は、ほとんど市場には出てこない。今では価格も高騰し、市場に出てきたとしても、もはや美術館がバスキア作品を購入するのは難しくなってしまったのだ。
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