「ウザい!」、氷河期世代に見捨てられた労働組合 それでも労組が必要な理由を探る「トラジャ」
労組決壊の絵図を描いたのは平成入社の社員たちである。彼らは「数年前から、組合に対する攻勢を強め、彼らが“ハネる”機会をうかがっていた」。そしてJR東労組がストライキの実施を通告すると、予想どおり、組合員たちの多くは組合を見捨てるようにして去っていく。「今どき自分たちの要求が通らないからと言って『ストを打つ』などという時代錯誤ぶりにはうんざりしました」と言って。
その昔、学生運動が盛んだった季節の後に「しらけ世代」が現れた。しかし、ここにあるのは「しらける」どころか、強く嫌う感情だ。それを端的に表すものが、本書の終盤で西岡が取材した別の社員の言葉のなかにある。
「正直、ウザいというか。彼ら、はっきり言って、仕事できない奴が多いんですよ。それでいて組合のこと(活動)になると、目の色が変わるというか、急に生き生きとするというか……」
「ウザい」である。階級闘争、トロツキズム、反帝反スタ、戦闘型労働運動、労使対等……、そうしたものすべては「ウザい」、この3文字に敗れるのであった。
労働組合のあり方とは
西岡は、ロスジェネ世代と呼ばれる世代に当たる社員たちの「これまで置かれてきた状況や、それに影響された考え方などを把握することができず、彼らなりに持っているであろう悩みに、対応しきれなかったからこそ」、JR東労組は見捨てられたのではないかと記す。これはJR東労組に限るまい。
政治に見捨てられた世代が、どうにかこうにか就職したり、どうにかこうにか生活したりしていくなかで、左翼的なものは見限られていった。それによって救われないことを身をもって知ったからだ。そして、そこにあっては、鳩山由紀夫元首相の「友愛」や労組が集会で憲法問題に躍起になっている姿は、「ウザい」だけだろう。
それでも、である。労働組合が不要でないことは、最近あった佐野サービスエリアのストライキをみれば明らかだ。それに対する「スト破り」での営業再開を、「待ち望まれた営業再開」として報じるテレビニュースにSNSでは批判があがる。世間は案外、公平である。
『トラジャ JR「革マル」30年の呪縛、労組の終焉』で西岡は、大企業の正社員による労働組合であっても、非正規雇用の増加や外国人労働者などそれが労働者の問題である以上、取り組むべき責務ではないかと述べている。そのとおりだろう。それをしない限り、大企業の正社員という「既得権益」の「ウザい」者たちとみなされるのが当世なのだから。
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