野村克也氏「超二流なら天才や一流に勝てる」 凡人でも努力次第で「超二流」に到達できる
あの1979年、近鉄対広島の日本シリーズ第7戦9回裏の攻防、「江夏の21球」は野球というスポーツを語るうえで大切なことが詰まっていた。江夏が投じた21球には、全部意味があった。とくに佐々木恭介に投じた全6球は球史に残る内容だったと思う。
ピッチングには「稼ぐ」「誘う」「捨てる」「まとめる」と4つの意図する球があるが、江夏の佐々木への6球には、そのすべてが詰まっていた。常々「根拠のないリードをするな」と指導してきた身にとって、「江夏の21球」は教科書のような事例であった。
世間では、どうやら江夏という男は天性で野球をやっているというイメージを持たれているようだ。だが、実際はまったく違う。江夏ほど執念を持って野球に取り組んでいる男もいないし、徹底的に勉強している男もいない。それくらい、理論的に野球をする男だった。
「準備」と「頭を使う」という点を考えると、とくにリリーフ転向以降の江夏は「超二流」的な選手と言っていいだろう。
江夏豊は、なぜリリーフ転向を受け入れたのか
おそらく世間の抱く江夏のイメージは、阪神時代のものなのだろう。まさにわがまま、豪放磊落、お山の大将。昔ながらの「エース」のイメージそのままの人物だった。そんな江夏が大きく変わったのは南海に移籍して、私と出会ったことが影響しているのではないかと思っている。
江夏が南海にやってきたのは1976年だ。当時の江夏は血行障害も抱えていて、長いイニングを投げられる状態ではなかった。しかし、江夏には抜群の制球力がある。私はリリーフに転向させようとするが、その頃のリリーフの地位は低く、江夏は首を縦に振らない。
それでも根気強く「野球界に革命を起こして、歴史を作ろう」と説得し、江夏にリリーフを任せることに成功した。最初は嫌々だった部分もあるだろうが、だんだんと江夏も私のことを信頼してくれるようになった。それは1つの出来事がきっかけだったようだ。
あるピンチの場面で、私の「アウトコース低めの真っ直ぐ」のサインに対して江夏がとんでもないボール球を投げて、結局それが引き金となり試合に負けたことがある。江夏ほどの男が、なぜこんなコントロールミスをするのか。私は試合後に江夏に声をかけ、話をした。
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