夜行列車の終点、「大垣」が築いた独自の存在感

知名度は高いが下車した旅人は多くない?

“水の都”と聞けば響きはいいが、江戸期の大垣はつねに水害で悩まされ続けた。それは明治に入っても変わらず、水害で木曽三川の鉄道橋がたびたび流出している。1888年と1896年は水害による橋梁流出で年間2回も鉄道が不通になった。1904年には、同じく水害で橋梁が流され、復旧までに約6カ月間も要した。

大垣輪中堤防委員長として治水対策にあたった金森吉次郎は、住民による水防組織をつくり、水防規則を定めた。また、大規模な河川改修も手がけている。

大垣に多大な損害を与える木曽三川は、その一方で大垣に舟運という繁栄をもたらした。ゆえに、水害を起こす原因だからといって容易に埋め立てれば大垣が衰退してしまう。大垣の住民たちは、河川と共存することを模索した。

その一端は、大垣銘菓にも表れている。大垣市内の和菓子店では、あちこちで銘菓「水まんじゅう」が販売されている。何げない和菓子のようにも見えるが、「水まんじゅう」は、湧水が豊富である大垣だからこそ生まれた銘菓でもある。

産業発展にも貢献した川

また、木曽三川は水力発電にも利用された。養老鉄道や大師電気鉄道(現・京急大師線)の創業者としても知られる立川勇次郎は、1912年に揖斐川電力(現・イビデン)を創業。揖斐川電力が電力供給事業を開始した。電気が使えることにより、大垣には大規模な繊維工場が進出してきた。

進出した工場には、摂津紡績(現・ユニチカ)のような大企業もあった。摂津紡績の工場は規模が大きく、工場には大垣駅から専用の引込線が敷設された。こうして、大垣は紡績産業が盛んな都市として大発展。大垣は急速に近代化を遂げた。

立川が創業した揖斐川電気は、国家が電力統制に乗り出したこともあって電力供給事業を手放す。そして、1940年に社名を揖斐川電気工業へと改称。電力供給事業から電気化学工業の素材メーカーとして再出発を図った。1945年には、大垣とともに歩むべく東京に置いていた本社を移転した。大垣を悩ませた“水”は、大垣発展のためにも利用された。

水に悩まされた大垣だが、受難は水害だけにとどまらない。1891年の濃尾地震では、駅舎が倒壊。このときは復旧に5カ月を要している。濃尾地震は大垣に壊滅的なダメージを与え、東海道本線という大幹線が機能しなくなる事態にも見舞われた。

東海道本線が機能不全を起こすことは、国内全体に負の影響を及ぼす。東海道本線の復旧工事には総理大臣の山県有朋と鉄道庁長官の松本荘一郎が大垣まで足を運び、念入りに視察した。それだけの大問題だったためだ。

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