近代以降、中国が欧米や日本に敗れ続けた理由 国民国家という圧倒的不利なシステムの代償

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15世紀の後半以降、「危機」は去って景気も上向いてきました。16世紀に入ると、世界は大航海時代、地球規模の商業ブームが訪れます。そのなかで中国国内も経済発展を遂げました。米作中心だった江南デルタは、手工業を発達させて、シルクをはじめとするその特産品が、世界の市場を席巻しました。

それに伴い、内地の再開発も進んで各地の生産は多様化していきます。このように多元化した社会は全体として商業化の様相を色濃くし、ご法度だった貨幣・貿易に対する人々の欲求も高まりました。

しかし明朝政権の態度は、一向に変わりません。民間ではそのため、独自に貨幣を設定し商法を取り決め、政治とは関わりのない経済システムを発展させていきました。そして貿易取引も、政府の意向にかまわず実行しましたから、密輸や外国との通謀なども頻発します。その代表例が日本も巻き込んだ「倭寇(わこう)」でした。

以後の中国はこのように、社会経済に指導力を持たない権力と、多元化して独自性、自立性を強める民間で成り立つ構造になりました。

両者が比較的に平穏な関係を保つときもあれば、対立を深める場合もあります。権力の側はいかに民間が離反しないよう、バラバラにならないようにするかに腐心し、民間はいかに権力が自らの生業・生活を乱さないような関係を取り結ぶかが問題でした。

清代から現代へ

17世紀半ば、内乱が頻発した揚げ句の明朝滅亡は、こうした権力・民間の関係が破綻したことを示すものでした。

明朝に代わって中国に君臨した清朝政権は、乏しい力量をよくわきまえて、民間社会の活動を抑圧するような政策は手控えました。貿易を開放し、自由な商取引を認めていますし、民間の使用する貨幣も規格をそろえたくらいで、干渉はしていません。

トラブルの起こらない限り、権力が制度・政策として、社会経済に規制、掣肘(せいちゅう)を加えるようなことはありませんでした。一元的な政治・法制と一体化せず、むしろ多元的な民間社会・地域経済の組み合わせ・関係性で成り立つ中国経済は、この時代に成形化を果たしました。

18世紀になりますと、「財政軍事国家」を形成したイギリスが、グローバルな世界経済をリードし、科学革命による技術革新を活用して、産業革命を成就させました。

近代列強のトップランナーです。イギリスが牽引した世界の貿易は、かつての大航海時代にも増して、グローバルな規模で拡大し、中国経済もその一環として組み込まれていきます。イギリスとの貿易が盛んになった18世紀の後半は、中国も未曾有の好景気に恵まれ、繁栄を謳歌しました。

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