一橋大卒、30年引きこもる56歳男性の心の叫び 「お母さんは死んでやるからね」に怯えた日々
今思えば、自分にも見栄があったのだろうと彼は振り返る。働きもせずに日本にいるのはカッコ悪い、周りにも知られたくない、海外放浪ならカッコいいのではないか、と。
3年間、アフリカにいたが、「結局は死ねず、死なずだった」と自嘲ぎみに話す。そんなとき宿泊していた場所に、母親から「父が病気で死にそうだ」と連絡があった。あわてて帰ると、父は元気に会社に行っていた。
「実は母が私に会いたかったのではないかとひそかに思っていたんです」
その後は埼玉に転勤になった父親とともに団地で暮らすことになった。名古屋で塾を経営する母に代わって、「専業主婦の役割を押しつけられた」のだ。後に、留学から帰ってきた弟と暮らすことになる。一方で家庭教師をしたりアフリカの旅の話を書いて本を出版したりもした。
「たまたま私を評価してくれる国際ジャーナリストがいて、中国の取材を頼まれました。でも、やはり心身の状態がよくなくて、納得できる仕事はできなかった」
そのジャーナリストは1995年に亡くなってしまう。何かをつかもうとしていた彼の頼みの綱が切れた。そして弟との関係も悪化していた。
「留学から帰国した弟の態度が変わっていた。“ガールフレンドを連れてくるから、はずしてくれ”と5000円札を投げてよこしたことがあって、どこでそんな言い方を学んだのかと愕然としました」
家族への手紙、原稿用紙700枚
1995年から1999年まで、彼はその団地でフロイトを読みながら、自分を模索し続けた。
「カーテンの外に光が見えるのがイヤだった。自分だけ置いてけぼりにされている気がして。昼も夜も雨戸を閉めて精神分析をしていました」
やはりこのままではいられない。家族の構造に問題があるのだから、解決すれば自分も普通に働けるようになるのではないか。彼はそう思った。
「家族にあてて原稿用紙700枚くらいの手紙を書いたんです。自分史みたいなものです。私の心をむしばんだ家族のゆがみについても書いた。最後は、家族会議を開きたいという思いで締めくくりました。4人で集まって問題点を話し合いたかった。ところが実家に戻った私に母は“何も問題なんかない”と言い張り、父と弟はだんまりを決め込んだ」
「愛されていた」。ただ1つその確認をしたかったのではないか。吐き捨てるように話をする彼を見て、そう思った。この世にいてもいい存在なのだと納得したかったのではないだろうか、と。