独断で選ぶ、日本の蒸気機関車「最強」の五人衆 馬力、華やかさ、保存両数が最多…
3:数奇な運命の峠の力持ちE10
1948年、E10という蒸気機関車が5両製造された。またもや第2次世界大戦直後の話になるわけだが、今は“山形新幹線”となっている奥羽本線の、福島と米沢の間の山越え区間で使うために設計されたのが、この機関車である。
さきのC62やC61とは生い立ちが異なり、戦争中に作られて戦後に余った機関車の部品は使わず、完全に白紙状態から設計、製造された。その意味では、国鉄最後の完全新造新形式機関車ということになる。
なぜこの機関車が占領各国からの認可を得られたのか。それは、占領各国による財政金融引き締め政策(いわゆるドッジライン)に起因する。
この区間に電気機関車を導入して輸送力を一挙に増大させる構想は古くから存在しており、戦争が終わった直後にようやく電化の起工式が実施されるに至ったのである。ところが、ドッジラインによって工事は中止の憂き目を見ることになった。自らの政策の結果としてこの区間の輸送力が激減してしまうことを避けるためには、機関車の新製を認めざるをえなかったのである。
その電化は1949年に完成した。E10のこの区間での活躍は、ほんの1年で終わりを告げた。想定されていたこととはいえ、あまりにもあっけない幕切れであった。
わずか14年で活躍を終える
せっかくの機関車は、似たような連続勾配区間である南九州の肥薩線に転用されることになった。しかし“大畑越え”と称されるこの区間にはすでに標準形式であるD51が投入されていて、E10はあまりにも特殊であるとして受け入れられず、続いて北陸へと移動せざるをえなかった。
その北陸では、源平の古戦場でもある金沢と富山の間、倶利伽羅峠越えの補助機関車として貨物列車や長距離急行列車などの先頭に立つことになった。しかしそれも、1955年に勾配の緩い新しいトンネルが完成したことで幕が引かれることになる。わずか5年間のことである。この時点では、急勾配が連続する電化計画のない重要線区はすでに残っていなかった。
最後は、北陸本線の米原付近で直流電化区間と交流電化区間の間を往復するという、本来の目的とはまったくかけ離れた用途をあてがわれ、1962年に、わずか14年の活躍を終えることになった。時の流れにもてあそばれた、悲劇のヒロインといえるかもしれない。
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