独断で選ぶ、国鉄・JR「史上最強の機関車」五人衆 真価発揮できず「役不足」に甘んじた機関車も

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東北の覇者「ED75」

国鉄の電化方式は、長らく直流1500ボルトに拠っていたが、1950年代には交流を使う電化方式の研究が本格化した。交流電化は変電所の数が少なくて済み、高い電圧による小さい電流で列車を走らせることができるというメリットがあるとされたからである。フランスなどの実例から多くを学んで、1955年4月から、東北地方の仙台と山形を結ぶ仙山線で実用試験が始まった。本格的な採用は北陸本線の田村と敦賀の間となったが、東北方面でも1959年には黒磯と白河の間が、常磐線は1961年に取手と勝田の間が交流で電化され、以後、次第に北上することとなった。

東北の覇者、ED75(station / PIXTA)

1963年に常磐線の平(現:いわき)まで達した際に、交流電化区間で広く使うことができる機関車が開発、投入されることになった。

これまでのED70からED74までで培われた経験と技術を生かしたこのED75は、もくろみどおりの性能を発揮して、1976年までの13年間に300両以上が製造され、東北地方の電化区間で独り舞台を演じることになった。熟成された技術や機器によって構成されたこの機関車が、大きな故障も少なく安定した性能を発揮した結果だろう。

九州と北海道にも投入すべく、60ヘルツ用と耐寒仕様の機関車も開発されたが、これはうまくいかなかった。やっぱり“万能”を達成するのは、難しいようである。

分割民営化以降はJR東日本とJR貨物に所属することとなり、いずれも住み慣れた東北で活躍したが、JR貨物の機関車は2012年までにすべて現役を引退した。JR東日本ではいまもなお秋田に2両と仙台3両が現役として残っていて、レールや線路の砂利など事業用の物品輸送、そして検査のための車両回送に使われている。ちなみにこの5両は、本来は奥羽本線の秋田と青森の間が電化される際に製造されたグループで、ED75の最終製造グループでもある。それでも製造から40年以上を経過していることになる。

蒸気機関車ファンの仇敵だった「DD51」

1960年代、国鉄では“動力近代化”の錦の御旗の下、蒸気機関車の数を減らすことに邁進した。その切り札として国産技術の粋を注ぎ込んで開発したのがDD51というディーゼル機関車だった。

JR貨物のDD51の中で、国鉄時代のカラーリングを最後まで残していた1両。名古屋から東京まで展示のためにやってきた時の姿。このあとすぐに廃車となった。JR貨物・隅田川駅(2016年10月30日、筆者撮影)

最初は電化工事が進んでいなかった東北や九州の幹線区へ。ほぼ同時期に“新幹線の駅に蒸気機関車は似合わない”という理由から、大阪の吹田から大阪市内への貨物列車を牽引させるためにも投入された。

試作機が1962年に製造され、引続き増加試作、量産と進んで1978年までの16年間に約650両が国鉄線上に投入され、四国を除く全国に普及した。

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