「自分を大きく見せたがる人」の危なすぎる心理

競争社会が生み出した「優越欲」の弊害

西欧でも日本でも、身分制度がしっかり存在している封建的な時代には、自由は限られていたものの競争意識はそれほど強くなかった。そのような時代は身分によって話す言葉も違っていたし、立ち居振る舞いも服装も決まっていました。

例えば、英語では「レディース&ジェントルマン」とレディーのほうを先に呼びます。なぜジェントルマンよりもレディーが先なのか。単にレディーファーストの国だからと考えがちですが、実は身分の違い。レディーの階級は「lord」で、ジェントルマンの語源になった「gentry」より身分が上なんです。だから先に呼ぶわけ。

日本だって江戸時代は身分によって違いが明確でした。町民は基本的に帯刀が許されませんでしたし、たとえ許されたとしても二刀差しはできず一刀まで。服装や行動が細かいところまで決められていたわけです。

こういう社会では、その身分を越えて自分を飾り立てることはできません。また、そうやって目立つ必要も今よりはるかに少なかったと想像できます。競争のないスタティック(静的)な社会では、自分を必要以上に大きく見せたり飾ったりすることはないんです。

『吾輩は猫である』に見る近代社会の「飾り」

ところが近代になって身分制度が廃止されて社会がフラットになったときから、社会はダイナミック(動的)なものに変質します。身分制度がないということは、自分の存在感を示すために自分を大きく見せる、飾ることが重要になってきます。

同時に競争意識も生まれてきます。福澤諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と平等主義をうたいましたが、同時に学問の大切さを説くわけです。つまり、身分に関係なく学問を修めたものが上に立って国や社会を引っ張っていく。

これを言い換えると、身分ではなく学問によって優劣をつけるということなので、義務教育の下で全国民を巻き込んでの学問の競争がここから始まった。福澤諭吉の言葉は、学歴社会や偏差値社会といった競争社会の大元だともいえるわけです。

つまり社会がフラット化する、自由になるということは、それだけ競争原理がはびこることにほかなりません。そんな封建社会から近代社会へと移り変わる際の、人間の自我の不安や孤独を小説という形で描いたのが夏目漱石でした。

『吾輩は猫である』の中で、漱石はやたらと自分を飾ろうとする近代人の滑稽さを、猫の目を通して描いています。西洋に詳しい人物が西洋料理屋に行き、ありもしない料理「トチメンボー」を注文します。連れられてきた人物もボーイもからかわれているのですが、ボーイもしたたかに「いま材料がないのでつくれない」と答える。

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