博多・辛子明太子を生んだ「変な会社」の真髄

ふくや創業者・川原俊夫氏、独自の経営哲学

発売から4年経っても明太子は店の片隅にあり、知る人ぞ知るという存在。

1953年頃の店頭の写真が本社に飾られている。立っているのは俊夫さん、右下の赤いものが明太子(筆者撮影)

「西鉄が福岡に野球チームを誘致するにあたって、GHQとつながりのある白洲次郎さんに会いに行く際、うちの明太子を手土産にしたというエピソードが残っています。それほどレアだったのでしょうね」

改良を続けると口コミで徐々に評判が広がり、やがて店の前には行列ができるようになった。そして1962年、中洲市場の店「いとや」に明太子の作り方を教えたのだ。

「『中洲市場に入って左手4軒目に明太子というものがあるらしい』とお客さんが来てくださるのですが、市場には入口が3つあり、間違って、『いとや』さんに行く方がとても多かった。それで、『いとや』さんから『商品を預かって売らせてほしい』と言われ、卸はしないが自分で作って売ってはどうかと提案して作り方を教えたそうです」

10年近くかけて開発した明太子の製法を、俊夫さんはなぜ惜しげもなく人に教えたのだろうか。

「中洲市場は引揚者の集まりで、みんなまるで家族のようだった。一緒に頑張ろうという気持ちだったのでしょう」

元祖や本家と名乗ることなどどうでもいい

さらに近くの店に教えたり、店の従業員が独立したり、卸業者も作るようになるなど、「ふくや」を起点として福岡の明太子メーカーは次々に増えた。

1975年、山陽新幹線の全線開通を機に「博多名物」として広まり、やがてメーカーが200ほどに。あまりにも多くなったため、ある日「元祖や本家と名乗ってはどうか」と息子が助言したところ、俊夫さんは「それを書けばおいしくなるのか。そんなことを考える暇があったら、少しでもおいしい明太子を作る努力をすべき」と怒ったという。

俊夫さんは誰にでも明太子の作り方を丁寧に教えたが、最後の味付けはそれぞれが工夫すればいいと考えていた。結果として、各メーカーは味も売り方もうまくすみわけた。魚市場を通じた卸売から百貨店、博多駅構内、東京進出など販路はさまざま。その中で、ふくやは自社の直接販売にこだわった。

中洲本店にはユニークな看板が掲げられている(筆者撮影)

それは、お客さまに上質な明太子を適正な価格で届けるため。卸を通すと1000円の商品が1500円や2000円になり、どのように管理されるのかもわからない。

また、「ふくや」は鮮度が非常に高い上質な魚卵を仕入れるために原価が上がり、卸せるほど粗利が出ないという内情もあった。

俊夫さんは「一流商品は、一番いいものを一番安く売ることばい。一番いいものを一番高く売るのは、一流商品じゃなかばい」と大手食品会社に対しても遠慮せずに言い、いいものをより安く提供することにこだわった。

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