夏目漱石には「人間の根本問題」が宿っている 養老孟司さんが考える「ほどほどの豊かさ」
「ほどほどに」と言うと、ごくごく当たり前に聞こえるかもしれません。でも、これが結構難しいことなんです。「ほどほど」と似た言葉に「中庸」というものがあります。よく勘違いされますが、中庸とは「両極端のど真ん中」「合計の平均値」を意味するものではありません。その時々でどちらにも偏らずに中正であることを意味します。
私は若いときに解剖学を学んでいました。その基礎研究をするときに、よく極端なことを考えていました。宇宙の果てから自分の足元までのことを考える。その両極端がわかりさえすれば、そのあいだのことは考える必要がないと思ったからです。
時代によって本当の真ん中は変わっていくので、真ん中「あたり」をフラフラできることが大切です。この態度のことが「ほどほど」なのです。だから、極端なことがわかるからこそ、「ほどほど」がわかる。逆にいうと、極端なことを何も学ばなければ、バランスが取れない人生を生きていくことになるとも言えます。
その人が本気で書いた本は、だいたい面白い
私は長く教育機関で仕事をしていたこともあり、読書について聞かれることが多い。その内容は、幼少期の読書体験から、今の学生に読書の大切さをどう教えるかということまで、実にさまざまです。
食べ物と同じで、読書にも好き嫌いがあります。読む人は放っておいても読むし、読まない人は読まない。私の場合は、本を読みながら三度の食事をしているくらいです。私は机に向かって読むことはしません。いつも何かをしながら本を読みます。今は電車や飛行機の移動中に読み、学生時代は歩きながら読んでいました。
だから、あれこれ読書の指導をするのではなく、読みたいやつには勝手に読ませておけばいいと思います。本の良しあしなんて教えなくても、その人にとって面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。こういうことはひとりでに覚えていきます。あえて言うと、その人が本気で書いた本はだいたい面白いです。漱石はその一人で、そういう人が書いたものはいつも面白い。だから古典を読めと言うことはあります。
今は学校でも、「賢くなるために読書しなさい」「本を読めば賢くなる」と言って読書をすすめているようですが、これはまったくの嘘です。本を読んで身に付けられることといえば文章をうまく書くことくらいで、賢くなろうとするならば自分自身の身体感覚も磨かなければならない。
この「感覚を使って生きる」ことと、「それを抽象化して文章にする」ことがつながってくれば人は賢くなります。でも、これは非常に大変なことです。
だから、もし私が子どもに本をすすめるとしたら、『ファーブル昆虫記』です。あの本は哲学でもないし、文学でもないし、科学でもない。ファーブル自身が昆虫を観察した感覚で書いている。虫を見てあれだけの本が書ける。
だからあまり本ばかり読まずに、外の世界に出向いていろんな体験をすればいいのにと思います。実際に思い切り体を使うことを経験して、自分の好きな本を読み漁る時間も大切にする。その両極端がわかり、自分の中でバランスが取れるようになれば、その人にとっての「ほどほど」もわかってくるのではないでしょうか。
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