民主党政権「影の総理」、仙谷由人氏の功罪 享年72、親分肌の政治家だった

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2011年6月28日の民主党両院議員総会 で笑顔を見せる菅直人首相(左)と厳しい表情の仙谷由人代表代行。「影の総理」と呼ばれていた(写真:共同通信)

仙谷由人氏が10月11日に亡くなったことが、16日明らかになった。享年72。鳩山由紀夫内閣では行政刷新担当相や公務員制度改革担当相として民主党の目玉政策を担当し、菅直人内閣では内閣官房長官などを務めて政権を支えた。その影響力から「影の総理」とも言われたが、その辣腕ぶりから「赤い後藤田(正晴)」「赤い野中広務」とも揶揄されることがあった。

安田講堂事件では「弁当差し入れ役」

「赤い」とされたのは、その経歴が原因している。東大時代は全共闘の闘士で、1969年1月の安田講堂事件では「弁当差し入れ役だった」と伝えられた。

また弁護士として1969年から1971年にかけて発生し、計18人が逮捕・起訴された「土田・日赤・ピース缶爆弾事件」(全員無罪)や、保坂展人世田谷区長が東京都と千代田区を訴えた「麹町中学内申書事件」など、思想的な背景のある事件を担当した。社民党の福島瑞穂参議院議員が新人弁護士時代に仙谷氏が所属する事務所に勤めたという関係もある。

国政への進出は1990年の衆議院選だ。当時の徳島県全県区から出馬して2位で当選。しかし1993年の衆議院選では次点に泣いた。

小選挙区比例代表並立制が導入された1996年の衆議院選からは、連続して5選を果たしている。民主党が下野した2012年の衆議院選では大きく票を減らして落選し、比例復活もかなわなかった。2014年には12月の衆議院選を前に「若い人に戦ってもらうのがベター」と引退を表明。それ以降は弁護士業務に専念していた。

仙谷氏は死去したのは10月11日だったが、その2日前まで事務所で仕事をしていたという。また今月4日には評論家の田原総一朗氏と昼食を共にし、9月には国民民主党の玉木雄一郎代表と新橋の事務所で懇談していた。おそらく仙谷氏本人にとっても、その死は早すぎたものだったに違いない。

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