新宿「歌舞伎町」は2大私鉄の開発で変わるか 東急は新ビル建設、西武は駅リニューアル

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1957年「新宿第一復興土地区画整理組合」によって建てられた「歌舞伎町建設記念碑」。歌舞伎町の建設経緯や組合役員の名前が刻まれており、組合長として鈴木喜兵衛の名前が刻まれている(筆者撮影)

鈴木はまず地主を説得し、続いて東京都で戦後の復興計画を担当していた石川栄燿(いしかわ・ひであき)のところへ計画を持っていく。すると、「広場」や「市民のふれあいの場」が必要だという持論を持つ石川は大いにこの計画に興味を持ち、都市計画を策定した。その際につけられた名前が「歌舞伎町」だ。由来は現在の新宿東宝ビルのところに設けられる予定だった歌舞伎劇場「菊座」からである。

石川は新宿東宝ビル前の広い街路やその西にある広場(シネシティ広場)を設けるなど広場を意識した街づくりを行い、まちに賑わいをもたらそうとした。しかし、この都市計画に数カ月を要したことで、資材不足などの理由により政府から建築規制が相次いで発令され、建物の建設ができなくなってしまったのだ。その結果、歌舞伎劇場の計画はなくなってしまう。

そのため、鈴木は新たなまちのシンボルを作るために奔走することになる。なんと一時期はいまのミラノ座跡地の場所にギャンブル場を作ろうという計画もあったほどだ。

東急と西武のにらみ合い

こうした状況の鈴木にアドバイスを与えたのは東急グループの祖、五島慶太だ。アドバイスを得て鈴木は歌舞伎劇場の計画を日米合弁の国際百貨店計画に一度変更したのち、さらに計画を変更。1950年に「東京文化産業博覧会」を開催した。これは興行的には大失敗したが、パビリオンとして劇場などに転用できる大きな建物を建てることには成功した。また、このイベントでようやく歌舞伎町が「新宿」の一部としてみなされるようになるという効果もあった。

現在の西武新宿駅の外観(筆者撮影)

その後も鈴木は企業誘致を進めることになるが、ここまで鈴木が躍起になったのは新宿二丁目からゴールデン街に移ってきた娼婦をなんとか歌舞伎町に入れさせないようにするためで、ひいてはスラム街化を恐れたためだった。1952年には都営バスの車庫跡地を西武鉄道の駅にする形で西武新宿駅が誕生。これには負担額を巡っていろいろなやりとりがあったが、なんとか歌舞伎町に駅を作ることに成功し、鈴木の狙いは一定の成果を挙げることになる。

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