なぜならば、「他人の不幸は蜜の味」は科学的にも証明されている。難しいことはよくわからないが、脳科学者の中野信子さんの著書によると、オキシトシンという脳内物質が作用しているようである(参考記事:「他人の失敗」を見ると快楽を覚える本質理由)。
要は、どれだけ、同情しようと、憐み、涙を流そうと、脳は「成功者の転落」を喜んでいるということである。これが人間というものなのだ。これが現実なのである。
だから、50歳以上にもなれば、「メシウマ」の心を大事にしたほうがいい。他人の不幸を楽しみ、時に陰で大笑いしたほうがいい。そういう他人の不幸を楽しむことによって、毎日が楽しくなる。老後が明るくなる。精神的にもいい。なにより、元気になる。気分も青空だ。いいではないか。どうせ老い先短いのだから、なにも遠慮することはない。
そのかわり自分の不幸を笑われても怒ってはいけない
しかし、逆の場合も、またよきかなではないか。自分が不幸になる。大きな失敗をしでかす。それによって、他人を喜ばすことになることを受け入れるべきだ。他人がほくそ笑む、喜ぶということは他人の心を明るくするということなのだ。友人が「やった!アイツ、失敗した」「不幸のどん底に落ちた」と、明るい気持ちになってくれるのであれば、それでいいではないか。
ここが大事なところである。人の不幸を笑う以上は、自分の不幸を人が笑うのを許容する寛容さがなければならない。当たり前だろう。自分の失敗を笑われて、憤慨し、人の不幸は、心のなかで大喜びするというのがよろしくない。それは人間として許されないし、品格が疑われる。
しかし、このようにして、お互いに、他人の不幸を大笑いすることによって、元気になれるというわけだ。これでいいではないか。遠慮することはない。にこやかに、「メシウマ」と声に出してしまってもいいだろう。「メシウマ」と小さな声でつぶやきながら、ほくそ笑もうではないか。面と向かっては難しいかもしれないが、他人の不幸を大笑いしよう。陰湿な憐憫、口先だけの形式的な同情より、はるかに明るく健康的ではないかと思う。
笑いは健康にプラスになる、との調査もある。他人の不幸を大笑いすることによって、健康寿命が延びるかもしれない。それによって若者に財政的負担をかけることも少なくなり、お国のためにもなる。「メシウマ」。他人の不幸を喜ぶことによって、お互いの明るく短い未来が待っているのである。
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