カズオ・イシグロに賭けた男の譲れない一線 翻訳本をすべて出す早川書房のこだわり

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僕は人間に関心がない者は出版をやる資格がない、と思います。マス(大衆)を相手にして商売をしている人は、ゲームにも関心を示したり、大衆心理はいまどうなのかと関心を持ったりするのが大切だと思いますね。

高校生のときには外交官になりたかった

――50年のご経験を振り返って、海外の出版界に早川さんの名前が知られるようになったのは、いつごろからですか。

22歳で大学を卒業して早川に入社して、その後アメリカに留学して25歳から正式というか定期的に外国の出張に出始めました。全部1人でやってきました。人数も少なかったし、アシスタントなんて当時いません。全部自分で手紙を書いて、約束を取って、ご飯をご馳走になったら、帰ってきた時に礼状を自分で書きました。

30歳くらいのときかな、「ああ、これは俺に向いている仕事だな」と。高校生のときには外交官になりたかったんですよ。もともと、アメリカに非常に関心があって、外国人に関心があって。「ああいう英語をしゃべれればいいな。俺もああなりたいな」と思いました。アメリカ文学っていうよりも、映画とか音楽とかアメリカの大衆文化に関心がありました。

ところがアメリカで友達になったのはイギリス人が多かった。コロンビア大学の語学学校に留学していましたが、学生寮にはイギリス人が多かった。今でもミラノ、ロンドン、パリと行くけど、ロンドンはいちばん長く滞在しています。いつのまにかイギリス文学との接点が多くなった。グレアム・グリーン、ル・カレ、アガサ・クリスティ……。レイモンド・チャンドラーはアメリカ人だけれどもイギリスにもいましたからね。だからアメリカ文化もさることながらイギリス人に影響を受けていますね。

――版権をめぐる海外との駆け引きで、「こんなのあり?」というような、だまされたような経験はありますか。

そうした経験はありません。ただ、金額が合わなければね、これはもうしょうがないです。

交渉をして感じるのは、早く結論を出すことが向こうにもよい印象を与えることです。ダメな時はダメと伝える。それから、版権を取っても、実際にはその翻訳を出さないことがあります。そんな時は相手から「なぜ出さないんだ?」と詰問されることがある。そのときに言い訳をするのではなく、出さない理由・事情を説明する。相手も機械じゃありませんから、きちんと説明すればだいたいわかってくれます。

――早川書房の将来を見据えたときに、これまでの知恵や経験を下の世代に移植しないといけないのでは?

移植できるものでしょうか? そういうものは、人それぞれで、いくら親子や兄弟でも、感性が違うと思うんですね。だけども、売れなくてはしょうがない。だからよいものを長く出し続けたい。

ワン・アンド・オンリーというのが早川書房の社是なんです。うちの親父は、「猿マネするなよ。人のやっていることがよさそうだからと、そちらに行くのは絶対やめてくれ」と。だから、そのDNAが僕の体の中にありますよ。ですけども、うちのせがれの代になって、それ(猿マネ)がいいというのなら、もうそれはしょうがない。ですけども、おそらく親父、私と2代続いたから、3代、それからその周辺の人もそのぐらいのことは理解してくれるんじゃないかなと思っています。

独自のものをやればいいというものじゃありません。もちろん売れるものをやらなければいけないし、長く読み継がれるもの、長く続けられるものを出さない出版社なんていうのは価値がないです。雑誌もそうでしょうが、特にうちみたいな単行本屋は、その気持ちはものすごく強いですね。ですから、それは違ったことをやっても構わないけれども、できるだけワン・アンド・オンリーの精神は、体の中に、背骨のように通っていてほしいなと思っています。

長谷川 隆 東洋経済 記者

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はせがわ たかし / Takashi Hasegawa

『週刊東洋経済』編集長補佐

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