ゲバラが死んだ村の人々が語る革命家の最期 スープを運んだ少女が見たものは…

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ボリビアは、南米で左翼政権が残っているわずかな民主主義国の1つだ。だが、左派が数少ない状態の中では政治運動が育つのは難しいと、ボリビア副大統領のアルバロ・ガルシア・リネラは話す。「他地域での勝利や闘争がなければ、長期的に繁栄、存続するのは難しい」。

ラ・イゲラにあるゲバラの壁画を前に遊ぶ子どもたち(写真:Nada Shira Cohen/The New York Times)

ゲバラの伝記を書いたジョン・リー・アンダーソンによると、ゲバラや左翼は同様の低迷期を過ごしたという。アンダーソンは、ゲバラの遺体の発見でも重要な役割を果たした。遺体は兵士によって隠され、1990年代まで見つかっていなかった。

アンダーソンは言う。「それでも、ゲバラは今もある意味で純粋な存在だ。いつも輝く灯台であり、象徴的な人物だ。将来も消えることはないだろう」。

ゲバラは死亡する前の数年間、その所在がわからなくなっていた。

ゲバラはキューバで共産党の勝利に貢献した後、銃殺隊の監督にあたり、キューバの中央銀行の総裁も務めたが、1965年に突然姿を消した。革命を組織するため、フィデル・カストロがゲバラを海外に派遣したのだ。ゲバラはコンゴに送られたがミッションは失敗。その後、タンザニアのダルエスサラームとプラハにある隠れ家を行き来していた。

「当時、ゲバラはカストロに殺されたという人もいたし、ドミニカ共和国のサントドミンゴで死亡したという人もいた。ベトナムにいるとも言われた」。こう話すのはフアン・カルロス・サラツァーだ。彼は1967年当時21歳で、記者として最初の大きな記事を書こうとしていた。「あそこで見たとか、ここで見たとか言われたが、彼がどこにいるのか、結局誰も知らなかった」。

最初にゲバラの居場所を知ることになった1人が、ロヨラ・グスマンだ。彼女はボリビアの首都ラパスで、共産主義青年グループのリーダーを務めていた。ある日グスマンは、パラグアイとの国境近くの小さな町、カミリに来るようにというメッセージを受け取った。何のための招集なのか、まったくわからなかったと彼女は言う。

グスマンは現在75歳だが、1967年1月の写真では若さがほとばしっていた。戦闘帽をかぶって少し疲れを見せながら、うだるような暑さのジャングルのキャンプで、丸太の上に座っていた。その隣にいたのがゲバラだ。

「彼は、ベトナムを2つか3つ作りたいと言った」とグスマンは話す。ボリビアを拠点として、同国やアルゼンチンやペルーで革命を起こすのだと。グスマンは彼に賛同し、首都に戻って革命への支援金を集め、そのおカネを管理することとなった。

農民には支持されず、追っ手が迫る

1967年3月、戦いが始まった。同月、ボリビア軍との間で戦闘が行われ、7人のボリビア軍兵士が死亡したのだ。

ゲバラは世界中に知られていたが、だからといって、ボリビアの農民に慕われることはなかった。加えて、同国では10年前に革命が起こっており、普通選挙の実施や、土地改革、教育の拡大などが行われていた。ゲバラがボリビアで戦ったときに、農民が参加したという記録はまったく残っていない。

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