児童書「モモ」はデキる大人の心にこそ刺さる あなたも「灰色の男」の餌食になっていないか
けれど作者のエンデは、決してまじめに働くことを否定しているわけではないのです。僕もいつも労働生産性を上げよう、と言っていますし、自分自身もそう心がけていますが、本を読むなど好きなことをする時間はきちんととっています。
灰色の男たちの主張は、無駄なことは一切やめて、毎日ずっと働き続けなさいということです。それでは人間が本当に歯車の一部になってしまいます。
そもそも灰色の男たちには名前がなく、記号で呼ばれているのはとても象徴的です。ナチスの強制収容所もそうでした。時間は人間の行動を支配していますから、時間のつかい方をもっと考えたほうがいい。おそらくエンデは、こんなことをやっていたら、またナチスの時代に戻ってしまいますよ、と暗に伝えたかったのではないでしょうか。
モモを時間の国へと案内した、カメのカシオペイアも名脇役です。カシオペイアはひたすらゆっくり歩きます。
「オソイホドハヤイ」
カメはこうこたえると、これまでよりもっとのろのろと這いました。そしてモモも──このまえのときにもそうだったのです──ここではそのほうがかえってはやくすすめることに気がつきました。ゆっくり行けば行くほど、まるで足もとの道路がふたりをのせて、どんどんはやくはこんでくれるようなのです。
浦島太郎を竜宮城に連れていったのもカメでしたが、モモを時間の国に連れていくのもカメです。「オソイホドハヤイ」は、ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスが好んだ言葉「ゆっくり急げ」にも通じます。
子どもは急がされることをとても嫌がります。朝、保育園に急いで連れていこうとしてもなかなか言うことをきかない。お父さん、お母さんは焦ってイライラする。
だけど急がされることを嫌がることこそが、人間の本性の一つだと思うのです。子どもにも自分のペースがあって、もっとゆっくりしたい。急ぐのは、ほとんどが大人の都合です。しかもちょっとぐらい急いだところで大した差はありません。
こうしてエンデは、無駄な時間をなくすことにどれだけの価値があるのか、と繰り返し問い続けます。
大人になって読み返せば、より本質に近づける
『モモ』は時間という高度な観念を子どもに教えてくれるだけではなく、今の社会(常識)に対する鋭い批判の目を養ってくれます。今の社会が決して理想ではなく、いろいろな考え方があるということを、やさしくていねいに教えてくれます。しかも話がおもしろくてイメージが鮮烈なので、子どもの心にもしっかりと残ることでしょう。
エンデは『モモ』を通じて、資本主義反対、市場経済反対というような単純なことではなく、もっと根源的な深いことを伝えようとしています。大人が読めば、より深い洞察ができる部分もありますが、それを直観的に理解するのは、大人よりもむしろ子どもです。曇りのない子どもの目だからこそ、素直に物語に入り込むことができ、エンデのメッセージをまっすぐに受け取れるのではないでしょうか。そして、大人になって読み返したときも、きっとより深くこの物語の本質に近づけるでしょう。
主人公のモモのキャラクターはさほど強くはありません。モモは実体のない鏡のようなもので、単なる主人公ではなく狂言回し、つまり物語の進行役でもあり、エンデの分身でもあるのです。
エンデは、この物語を書くのに6年もの歳月をかけました。ゆっくりと、そして夢中になって書き上げたのでしょう。その成果は見事としかいいようがありません。子どもと一緒にじっくりと味わってみてください。
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