複数の計画が競合して申請された場合、通常は国が工事の難易度や採算性、申請者の資産状況などを比較審査し、いずれか一つの発起人グループに免許を与えていた。しかし、身延山の場合はそれ以前の根本的な問題があった。当時の久遠寺や日蓮宗の信者、地元住民らが、ケーブルカーなどの計画に強く反対していたのだ。
久遠寺はなぜ、計画に反対したのか。林さんは「身延山は宗祖日蓮大聖人が晩年を過ごされた霊地であり、法華経の聖地聖山。当時はケーブルカーなどの設備によって俗化してしまうことを強く警戒、懸念したのだと思う」と語る。実際、国立公文書館にも「身延登山索道及鉄道不認可願」「身延山奥之院ニ関スル宗祖日蓮ノ歴史及ヒ一般宗徒ノ信仰状態」と題した文書が残されている。
久遠寺が鉄道大臣に反対意見を提出
この文書は身延登山鉄道(戦前)の申請から1カ月後の1926年6月22日付で、久遠寺の第81世法主・杉田日布ほか6名が当時の鉄道大臣に宛てたもの。「一般ノ宗徒ハ老若ヲ問ハズ辛苦悛坂ヲ登攀シテ一層ノ信仰ヲ増ス計リニシテ一人トシテ登攀ノ困難ヲ訴フル者アルヲ聞カズ」「孝道ノ教化ニ資スル歴史アル奥之院山路ヲ蹂躙ニ委ヌルハ一般宗徒ノ忍ヒザル所ナリ」「霊山ヲハ之カ為メ俗化セシメテ信仰的ニ滅亡セシメントスルハ直ニ悲痛ノ極トス」などとし、計画を認可しないよう求めている。
端的にいえば、苦労して山を登ることで信仰が深まるのに、ケーブルカーなどで楽々と奥之院に着いてしまっては意味がない、ということだろう。これ以外に工事の難易度が高いといった問題もあったようだが、最終的には久遠寺の強い反対が決め手となり、ケーブルカーとロープウェイの申請は1932年頃までに全て却下されたとみられる。
ところが、戦後の久遠寺は賛成の立場に転換。先に述べたとおり、ロープウェイへの機種変更を経て開業している。久遠寺がロープウェイ開業後の1973年に編集した『続身延山史』によると、「本ロープウェーの架設許可実現は、一に時代の要望ともいうべきで、前代の如き大きな反対は起こらなかった」という。久遠寺も時代の変化に伴い、「文明の利器」に対する考えを変えていったようだ。
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