林さんは「かつて老齢者や病弱の方は険しい坂道を登ることができず、参拝したくてもできなかった。ロープウェイの完成で誰でも登詣参拝できるようになり、それが画期的なことと認知されるに至った」とする。信者の高齢化対策としても、交通機関の整備は必然だったといえるだろう。昨今のバリアフリー化の流れに通じるものがある。
山間部の寺社が、バリアフリー対策として交通機関を整備した例はほかにもある。「牛若丸伝説」で知られる鞍馬寺(京都市)は「足の弱い方や年配の方が少しでも楽に参拝できるよう」(公式ウェブサイトでの説明)簡易タイプのケーブルカーを1957年に整備した。ロープウェイが整備された久遠寺でも、門前町から本堂やロープウェイ駅までは急な坂があり、最近になって斜行エレベーターが整備された。
その一方で林さんは「戦後の計画でも反対が全くなかったわけではない。ロープウェイの開業後、参道途中の諸堂は訪れる人が少なくなり、なかには廃れてしまったものもある。こうした『歴史的な意味でのマイナス面』を挙げる人は、今もいる」と話す。七面山敬慎院のロープウェイ計画は、戦前と同じ理由で反対意見が多いといい、現在も実現していない。
息子・石橋湛山は戦後の計画に賛同
ところで、「不認可願」で名前が出てくる久遠寺の杉田日布は三男三女をもうけたが、1884年生まれの長男は東洋経済新報社の主幹を務め、戦後は短い期間ながら内閣総理大臣を務めた。そう、あの石橋湛山だ。
『続身延山史』は戦後の計画について「特に石橋湛山・永田雅一(草町注:大映の社長を務めた実業家)等の賛成が実現を促進させた」とする。石橋と永田はともに日蓮宗の信者。著名な信者が計画に賛同したことも、転機の一つになったのだろう。
石橋は身延山ロープウェイの開業式に出席している。父が反対していた交通機関の開業に立ち会った石橋の胸に、何か去来するものはあったのだろうか。公刊されている『石橋湛山日記』は1945年1月から1957年1月までで、戦後の身延登山鉄道が免許を申請する前の話。それ以降に書き残したものはないかと国立国会図書館の所蔵文書などをあたってみたが、身延山ロープウェイに触れたものは見つからなかった。
石橋湛山記念財団に確認したところ、未発表分の日記も身延山ロープウェイに関する記述はないとのことだった。
(一部敬称略)
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