「疲労回復ウェア」をつくった男の波瀾曲折 「床ずれを解消したい」という一心で実現した
中村氏:うちは代々、親、親戚含め起業一家でした。起業といっても、何か新しいアイディアで勝負するというよりは、世の中の需要を商売に結びつけていくという感じでした。食卓の話題にのぼるのはいつも、商売の話。そうした空気の中で私は育ちましたが、親の仕事を継げと強制されたことも、起業のための特別な教育を受けた記憶もありません。ただ、唯一何度も口癖のように言われていたのは「将来は自分の思い描いた通りになるものだ」という言葉でした。
――その言葉は中村さんの起業の源にもなっている。
中村氏:その時はそれほど意識していませんでしたが、「自分がやりたいと思うことに対してリミットをかけない」ということ、そして「将来は思い描いた通りになるんだ」という妙な自信は、知らず知らずのうちに育てられていたのかもしれません。
「やりたいことは何でもやる」。幼い頃は、考えるより手足が先に出るような性格で、外を遊び回っていて、生傷の絶えない子どもでしたね。そんな有り余るエネルギーをぶつけていたのがラグビーでした。他のスポーツのルールは物足りないものでしたが、タックルしても、ぶつかっても、それがプレーとして評価されるスポーツに出会えたことが、その後に繋がる一つの大きな節目になりましたね。
「生きた証を残したい」九死に一生を得て芽生えた意識

――自分のエネルギーをぶつけられるものが見つかった、と。
中村氏:ひたすらラグビーに明け暮れていましたね。高校生になるとさらに花園を目指して生活はすべてラグビー一色。ところが、高校2年生の時に出場したラグビーの県大会決勝戦で、「ピリオド」は突然訪れました。
決勝戦ということもあり、いつも以上に張り切ってしまったのかもしれません。試合中、激しいタックルで相手選手と衝突したのですが、打ち所が悪く意識を失ってしまい、そのまま救急車で病院に運ばれたんです。
精密検査の結果は問題なし。ところが検査の翌日、いつもと同じように電車に乗って駅に向かったところで「異常」に気がつきました。改札で定期券が手から滑り落ちたのですが、その後何度拾おうとしても指が思うように動かなかったんです。
手と脳が繋がっていないような感覚。ショックでした。実はその時、脳の硬膜が破れ出血を起こしている状態で、命の危険に晒されていたんです。しばらく経過観察が必要でした。そんな中、奇跡的に大きな手術にもならず、一命を取り留めることができましたが、この事故以来、激しいスポーツは一切禁止。もちろん大好きなラグビーの道も、この日を境に絶たれてしまいました。
――突然、自分の居場所がなくなってしまった……。
中村氏:ラグビーの夢も断たれ、しばらくはエネルギーを向ける矛先を失い、やる気が起きず、正直腐っていました。そんな状況を変えたのが、短期留学で向かった、イギリスでの生活でした。どこか別の場所、文化も言葉も違う景色のなかで過ごしたいと思っていました。そこで、いろいろな人と触れ合う中で、少しずつ事故に対する向き合い方が変わっていったんです。