30代から成長したい人が持つべき「3つの鏡」 僕が「貞観政要」を座右の書にする理由
「政要」とは、政治の要諦のことです。つまり、『貞観政要』は、貞観時代の政治のポイントをまとめた書物であり、その中には、貞観というまれにみる平和な時代を築いたリーダーと、そのフォロワーたちの姿勢が明快に示されているのです。このような書物なので、クビライや乾隆帝(けんりゅうてい)など後の中国の皇帝が帝王学を学ぶために愛読し、わが国でも北条政子や明治天皇が学んだといわれています。
名君と呼ばれる人にはどのような条件が?
太宗は約24年間、帝位に就いていましたが、唐朝(西暦618~907年)の基礎は、太宗と次世代の武則天(ぶそくてん)によって確立されたといわれています。
太宗がリーダーとして傑出している理由は、大きく2つあると僕は考えています。
①「権限の感覚」を持っていたこと
臣下にいったん権限を与えたら、その権限は臣下のものです。皇帝といえども口出しすることはできません。それが、仕事を任せるときのルールです。いやなら、その部下を更迭すればいい。それをせずに口出しすれば、「組織」が「個人商店」になってしまいます。
皇帝は絶対的な権力を持っています。ですが、「ここからここまでは、自分で決めていい」と権限を与えて部下に仕事を任せたのなら、たとえ皇帝であっても、部下の決定に従わなければなりません。
皇帝が自分勝手に権力を行使すれば、人民や臣下を疲弊させ、やがて裸の王様になってしまう。太宗には、そのことがよくわかっていました。
高い地位に就いた人間が、裸の王様になれば、君主の一言一句に組織が振り回されるようになり、同質化します。そして同質化した組織は、やがて時代の変化から取り残されてしまいます。
②臣下の「諫言(かんげん)」を得たこと
太宗は、諫言する部下を積極的に登用していました。諫言とは、上司の過失を遠慮なく指摘して忠告することです。
『貞観政要』に登場する太宗の側近は、魏徴(ぎちょう)をはじめとして、太宗を数えきれないほど諫(いさ)めています。後述しますが、太宗は、自分を殺そうとした人物さえ、その能力を認め、側近として任用しています。臣下の忌憚(きたん)のない諫言を聞き入れることで、裸の王様にならないように努めたのです。
太宗は、臣下の諫言を積極的に受け入れ、彼らの批判に耐えることで、自らを鍛え上げていきました。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら