あのJヴィレッジは?福島原発20キロ圏内の今 一部立ち入り緩和も,広野・楢葉・富岡町の苦難続く
工業団地は高台にあったため、大津波がはるか太平洋の沖合から襲来してくるのが見えた。地元に住む従業員から悲鳴が漏れた。
「会社にいても仕方ない。暗くなる前に自宅に戻って家族の安否を確認してほしい」。工場長の指示で70人近い従業員は自宅へと戻っていき、再び顔を合わせる機会はなかった。翌12日朝、福島第一原発から20キロ圏内の自治体に政府の避難指示が出されたためだ。金井さんもミネラルウオーターやトイレットペーパーなどわずかな荷物を自家用車に積んで、町が指示したいわき市内の避難所に4時間かけてたどり着いた。
05年の操業開始当時、金井さんはパートタイマーとして入社。その後、準社員、そして正社員へと昇進し、震災前には事務部門に所属していた。職場では、バーベキューパーティーや忘年会など、楽しい思い出も多かった。その仕事を原発事故をきっかけに失った。06年3月に新築した自宅のローンが1700万円も残っており、完済までに20年もかかるというが、5月末に送られてきた東電からの土地建物に対する賠償額は、720万円に過ぎなかった。
反原発活動40年、僧侶の無念
いわき市在住の伊東さん(写真⑥)も、楢葉町はなじみ深いという。町内にある「宝鏡寺」の住職である早川篤雄さん(73)とは反原発の活動で40年にわたって親交があり、寺の宿坊でしばしば勉強会を開いた間柄だ。
阿武隈高地の山麓に建つ600年の歴史を持つ古刹は緑の木々に囲まれており、放射能を意識しなければ何ごともないかのように見えた。しかし、境内には雑草が生い茂っていた。「庭先の鳥小屋で飼われていたホトトギスもいなくなり、池のコイも盗まれたようだ」と伊東さんは語った。早川さんは原発事故直後、妻および自らが運営していた福祉施設の14人の障害者や職員らとともにいわき市内に避難した。その時、自宅や自らが運営する福祉施設に招き入れたのが、旧知の伊東さんだった。
「早川和尚は本当に無念の思いでしょう」と伊東さんはつぶやいた。寺に向かう道路脇の田んぼは除染作業で発生した土を入れた黒い土嚢で埋め尽くされていた。その田を国に提供した人物は誰あろう早川さんだったからだ。
「人生を懸けて原発に反対してきた人が、率先して汚染された土砂を引き受けざるを得ない。これが原発事故が突き付けた現実だったということです」。伊東さんは早川さんの思いを代弁した。
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