「すみません」という日本語が示す3つの意味 その基盤は「自責の念」にある
このように、英語にすれば三つの表現になる言葉を、日本語では「すみません」のひと言でまとめているのです。このことを整理していなければ、「すみません」を正確に英語には訳せないでしょう。しかし、それでも日本語では不自然さを感じることなく会話ができてしまうところに、相手を大切に考え、相手を理解しようとする日本人のおくゆかしさを感じます。
三つの「すみません」の基盤
ここまでは「すみません」に含まれる三つの意味を整理しましたが、実はその三つの意味に通じる基盤となる思いがあります。それが、「申し訳ない」という思いです。しかし、これは単に他人に迷惑をかけてしまうというような外側に向く反省ではなく、その迷惑をさせてしまう自分自身という内側に向く内省です。つまり、自責の念です。
これは、物事や結果の原因を他者の求めない「仏教の教え」に通じるものがあります。仏教には「自灯明」(じとうみょう)、「法灯明」(ほうとうみょう)という教えがあります。これらは仏教の開祖として知られるお釈迦さま(釈尊ともいいます)が亡くなる前に、お弟子さんたちに送った言葉とされています。
お弟子さんたちは師匠であるお釈迦さまの命があとわずかと知り、お釈迦さまが亡くなった後、何を生きがいにすべきなのか問いました。
その問いに対してお釈迦さまがお答えになったのが、「人に頼るのではなく、自らをよりどころにしなさい(自灯明)」、「法(真実の教え)をよりどころにしなさい(法灯明)」という教えでした。
これは、苦しみ(満足できない心)や困難があったとしても、むやみに他の人を頼ったり、他者に問題の責任転換をしたりしてはならない、という意味です。「苦しみの原因も、またその解決も、自分の中にある」と説くのが仏教の教えです。私はこの教えが「申し訳ない」という思いそのものであり、結果的には「すみません」という言葉の精神であると思うのです。
昔、学生時代にある本(『菊と刀』ルース・ベネディクト著)を読んでいて、西洋的な観点から見ると、日本は「恥」を大事にする文化だと書かれている一文を目にしました。その時は、あまりその表現や意味が自分の中でしっくりこず、深く考えることもしませんでした。
しかし、自責の念をもって、自分の不甲斐なさによって他者に何かしらの負担を与えてしまうことに対して申し訳なく、気持ちがおさまらないということを「恥」とすれば、やはり日本は「恥」を大事にする文化なのかもしれない。そう改めて考えさせられました。
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