パリ女性の美意識は「闘争の歴史」が育んだ わずか半世紀前まで本当の「自由」はなかった
フランス革命の理念で有名なスローガンは「Liberté, Égalité, Fraternité (リベルテ、エガリテ、フラテルニテ)」です。日本語では「自由・平等・博愛」と訳されますが、フラテルニテは“分けへだてのない平等な愛”ではなく“同志愛”といったものに近いのです。身内だけに向う愛ですから「汝の敵を愛せよ」というアガぺ(神の愛)とは異なります。
フランス革命は近代市民革命の先駆けといわれます。「ステイタス(身分)からコントラクト(契約)へ」。新しい経済思想によって新しい社会がつくられていくことになりました。また『人権宣言』では、人間が自由であり平等な権利を持つのものとして、生を享けたことを高らかに謳っています。
しかし、この宣言でいう「人間」の中には、女性が含まれていなかったのです。人間の半分が入っていなかったなんて(いささか古くなりましたが)びっくりポンではありませんか!
正当な発言機会を封じられたまま葬られた女性たち
ドラクロワの傑作『民衆を導く自由の女神』は世に知られた傑作です。あの絵の、乳房露わに民衆を導く女神がマリアンヌ。マリアンヌは国旗や国歌とともにいくらか後れて誕生しましたが、フランスを擬人化した象徴となって、アメリカ建国100年にはニューヨークにも進出し、自由の女神となりました。
世界で初めて女性の権利を宣言したのはオーランプ・ド・グージュです。1791年に『女権宣言』を発表しました。革命前にはベルサイユでマリー・アントワネットと姸を競ったともいわれる彼女は、「女性は断頭台のぼる権利をもつ、従って女性は演壇にのぼる権利をも有するものである」と、女性参政権を要求したのです。
女権宣言のためか、それともジャコバン恐怖政治の暴風の結果なのか、演説の内容のままに彼女は断頭台の露と消えます。その断頭台は2週間前にマリー・アントワネットの血を吸っていました。美貌と才能に恵まれた誇り高き女性たちは、正当な発言の機会を封じられたまま、罰においては男性と同等の義務を課せられて葬られたのです。
フランスで女性参政権が認められたのは1945年。奇しくも占領軍の命令で日本国政府が渋々認めた年と同じです。日本女性は翌年実施された最後の帝国議会総選挙で、初めて参政権を行使しました。
ただ、それでもまだ人間の平等はフランス女性に与えられませんでした。たとえば、職場におけるパンツルックは許されず、銀行口座の開設には夫の許可が必要だったのです。フランス女性が男性と同じ権利を手に入れたのは1968年五月革命。わずか半世紀前のことです。
――それにしてもマリアンヌ。よくもこれだけ長い間コケにされてきたものとは思われませんか?
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