アスリートの「第ニの人生」、その厳しい現実 日産自動車で奮闘する元箱根ランナーの今

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陸上部時代は一般社員とまったく別の流れで動いていた。6時からの朝練習で、1時間半ほどトレーニングをして、朝食後に出社。陸上部員は練習拠点近くの事業所に属しており、9時から14時まで各事業所で過ごすも、専門的な業務はほとんどなかった。コピーをとるなどの簡単な雑務をする以外は、陸上の練習計画、血液データなどの体調管理シートを作成していたという。その後、16時から2~3時間ほどトレーニングして、1日が終わる。

強化日の水曜日は業務を免除されていたため、出社するのは週に4日。夏季や試合前には「合宿」が組まれるので、1年のうち4分の1は職場にはいなかった。

「仕事をやろうと思えば、任せてもらえたんですけど、合宿で長期留守にするなど、まわりに迷惑をかけてしまうことを考えると、僕は(仕事を)もらうにもらえなかったですね。陸上で入ったのに、陸上に集中できなかったら本末転倒だと思っていましたから」

佐々木は全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)に2度出場。2007年大会では、チームの8位入賞に貢献した。しかし、陸上部員に“悪夢”が突然やってくる。2009年2月9日のことだった。日産自動車のCEO、カルロス・ゴーン氏が記者会見を行う直前、陸上部に悲痛の連絡が入ったのだ。全日本実業団駅伝で優勝したこともある名門は、2009年3月末日での「休部」が決まった。

「突然すぎて、ビックリしましたね。ちょうど合宿に行く直前で、テンションがガタ落ちしました。ニクの日(2月9日)が来ると今でも、あのときのことを思い出しますよ」

日産自動車の陸上部員(監督1名、コーチ2名、選手12名)にとって“セカンドシーズン”が幕を開けると、実績のある選手や若手は他チームに移籍。陸上に携わる仕事がしたい、と退社して、新たな道を選択する人もいたという。そのなかで、佐々木は会社に残ることを決断した。

「会社に残った一番の理由は、選手として中途半端だったからです。調子を落としていたとはいえ、最後の年は全日本実業団駅伝のメンバーから外れました。その年、日産自動車は22位とボロボロだったんです。そんなチームでレギュラーになれなかったら、どこに行っても難しい。恥ずかしながら、オリンピックを目指したいという気持ちがあったんですけど、佐藤悠基らと互角に戦えるかと自問したとき、無理だなと思っちゃいましたね」

陸上部員として4年間を過ごした佐々木は、2009年4月から品質保証部に所属するエンジニアになった。

エンジニアとしての言葉が理解できない

車が好きだった佐々木だが、エンジニアとしては予想以上に“厳しい戦い”が待ち構えていた。

「世間の人と比べて、僕は陸上の能力が突出していたわけですけど、会社に残って仕事をするには、別の能力が必要になってきます。理系でもなかったですし、エンジニアの知識が極端に欠けていました。社業に専念することになって、正直しんどかったです。周囲は東大をはじめ、超エリート校の理系出身者ばかり。僕は大東大の出身なので、“ビッグ東大”です、という冗談を言ったくらいですから(笑)」

優秀な理系出身者が集まる集団のなか、“超体育会系の文系出身者”はひとりだけ完全に浮いていた。佐々木の立場を陸上でたとえるなら、これまで運動をしてこなかった学生が、いきなり箱根駅伝常連校の練習に混じるようなもの。ついていけるはずがない。

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