「福岡」と「博多」は、なぜ微妙な関係なのか 両者の「違い」を正しく説明できますか?

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黒田二十四騎と黒田長政に扮(ふん)し旧福岡城内を練り歩く武者行列=3月27日、福岡城おおほりまつり

福岡市の行政区の一つに「博多区」はあるが、地元の人が「博多は美人の多かでしょ」と言っても、それは博多区でなく福岡市全体の美人率の高さを自慢している。加えて、江戸期は隣り合った地域としての「博多」「福岡」があった。混乱や勘違いを生む要因がありすぎるのだ。

福岡市一帯が歴史に初めて登場するのは、西暦57年。「後漢書」東夷伝に、光武帝が奴国(なこく)に金印を授与したと記されている。「漢委奴(かんのわのなの)国王」と刻まれたその金印は、江戸時代に福岡市北部の志賀島で見つかり、国宝になった。この「奴国」をはじめ、一帯が古代から栄えてきたのは間違いない。

商人の町・博多、武士の町・福岡

博多総鎮守として「博多っ子」の心のよりどころになっている櫛田神社

「博多」という地名が出てくるのは、奈良時代の759年。『続日本紀』によると、律令制下で、九州の行政機関として置かれた大宰府(福岡県太宰府市)が、朝廷に対して博多湾一帯を指す「博多大津」の国防警備の懸念を伝えたものだ。

奈良時代から平安時代にかけては、大宰府に属した迎賓館「鴻臚館(こうろかん)」が置かれ、平清盛が日宋貿易の拠点として港を整備。豊臣秀吉は九州平定と朝鮮出兵の拠点として「太閤町割り」と呼ばれる町づくりを行い、博多商人たちが国際貿易都市へと発展させた。博多が「商人の町」といわれるゆえんだ。

福岡藩の中心部が武士の町・福岡と商都・博多の間で明確に線引きされていたことを表す正保福博惣図(1646年、福岡市博物館所蔵

一方、「福岡」は、岡田准一主演の大河ドラマ「軍師官兵衛」で描かれた黒田官兵衛の長男・長政(初代藩主)が「福岡城」築城に着手した1601年から始まった。城を築いた那珂川から西のエリアを「福岡」と命名したからだ。

これは、黒田家祖先ゆかりの備前国邑久郡福岡(岡山県瀬戸内市)にちなんだというのが定説。博多との境界に石垣を築き門番が見張った。この区切りによって「商人の町・博多、武士の町・福岡」の“ツートンカラー”が保たれてきた。

福岡城の周囲には堀を巡らせ、敵が城下に侵入しても直進できないよう道をカギ型にしたり、袋小路を設けたりと町割りに仕掛けを施した。その名残は今も、若者でにぎわう大名地区にあり、「路地裏」として街の魅力になっている。

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