2日目も前日に引き続き名鉄の乗りつぶしを敢行した。小さな時刻表の索引地図を眺めていたところ、ちょうどよい時間帯の路線バスを見つけてしまい、名鉄から路線バスに浮気もした。紙の時刻表はこういうときに便利だ。
乗りつぶしに関しては多少の不便を感じたものの、それ以外で通信環境との断絶により困ったことは特に起こらなかった。SNSに投稿できなくても、人の投稿を見ることができなくても、平気なものである。
スマホがなければないで過ごしてしまうのに、あると見てしまうのはなぜだろうか。SNSから入手できる情報というのは、旅に出なくても得られるが、車窓はそこでしか見られない。当たり前のことなのだけども、私はそれをないがしろにしていた。
また、投稿するための文章、写真に夢中になり、「人に見せる旅」になりかけていたりする。SNSへの投稿や閲覧により、人と繋がっている感じがしていたのだが、むしろ人と自分の生活を比べ、しょんぼりすることもある。見なかったらわからないし、何も心を動かされることはない。
繋がりすぎると寂しくなる
「大切な仲間たちとの集まり」や、「こんなおいしいものを食べた」というのはあくまで他人の生活であり、知らなくても困らないし、知る必要がないものなのかもしれない。逆説的だが、人と繋がりすぎていて寂しくなるのだろう。実際、旅の2日間、「人とお喋りしたいな」とちらっと思うことはあったが、それ以上のことはなかった。
丸々2日間、SNSとの断絶を図っての旅を終えて帰宅したのち、満を持して2日ぶりに投稿したのだが、誰1人からも反応がなかった。そういうものかもしれない。
ただ、直接の知り合いでなおかつSNSで繋がりのある人からは本気で心配をされていたようだった。あらかじめ旅行の趣旨を伝えていたのだが、「まさかここまで本当に途絶えるとは思わなかった。何かあったのかと心配した」と言われた。そもそもはSNSなんてなかったはずなのに、投稿を始めてしまったばっかりに、SNSから気配を消すことと実際の本人の存在の不確かさが、ほぼイコールになってしまうということなのかもしれない。
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