捕虜の拷問は、テロの抑止にはつながらない--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト

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 要するに道徳性や合法性、国際的な拷問禁止協定に対するリベラル派の配慮は愚かなことであり、無責任であると主張しているのである。すなわち、米国が再びテロリストに攻撃されるようなことがあれば、そのとき、批判されるのは誰かがわかるだろうというのである。

個人への拷問は戦争行為ではない

テロ攻撃が行われる確率は、現在の“拷問をめぐる議論”の中では、それほど高いとは見られていない。チェイニー前副大統領やその支持者は、拷問をプラグマチックな観点から見ている。すなわち国家の安全に対する深刻な脅威が存在するなら、民主的な国家であっても自らの手を汚すべきであり、安全保障は道徳的な配慮よりも重要で、法律はそうした事態に対応するように調整されるべきであると主張しているのだ。

その対極に道徳的な嫌悪感から、拷問はいかなる状況の下でも行うべきではないと主張している人々がいる。これは「戦争状況であろうが、戦争の脅威が存在しようが、国際的な政治不安が存在しようが、あるいは国家的な緊急事態にあろうが、拷問を正当化する例外的な状況はありえない」というジュネーブ協定を批准した人々の法律的な立場を反映したものである。

拷問を禁止するオバマ大統領の決定を支持する人々は、チェイニー前副大統領のプラグマチックな考え方に対して、同様にプラグマチックな議論で答えようとしている。彼らは、拷問は米国の安全を保つうえで最善の方法ではないと主張している。極端な苦痛の中で人は何かを口走るものである。自白で得た情報は信頼できない。尋問テクニックは非人間的(かつ違法)であるだけで効果的な手段でもないと主張している。

こうした議論を受けて米国では、リベラル派の評論家や政治家は前政権の記録を調査するために特別調査委員会の設置を要求している。それによって、拷問が非生産的で、米国のイメージや法の支配を大きく損なっただけでなく、テロを助長することになると主張している。

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