足元がベタベタしていることに気づいた彼女は、顔をしかめることもなく、静かにしゃがみ込んだ。そしてトートバッグからウエットティッシュを取り出し、黙々と床を拭き始めた。一度、二度、三度。丁寧に、何度も拭く。
車内の空気が変わった気がした。何人かの乗客が、彼女を見ていた。私は呆気に取られた。そして、気づいた時には、彼女の隣にしゃがみ込んでいた。
「手伝います」
そう言って、一緒に床を拭いた。彼女は台湾の言葉で何かを喋っていたが、私には理解できなかった。二人で数十秒かけて床を拭き上げ、汚れはほとんど取れた。
「Okay」
彼女は小さく言って、立ち上がった。私も立ち上がる。彼女は汚れたウエットティッシュを手に持ったまま、2駅先で降りていった。振り返ることもなく、当たり前のことをしたかのように。
私は自分の左手に持っていたウエットティッシュを握ったまま、この数分間の出来事に静かな衝撃を受けていた。
反射的に「避けた」自分への違和感
電車が次の駅に着くまでの間、私の頭の中は混乱していた。
最初に感じたのは、恥ずかしさだった。いや、恥ずかしさというより、自分の行動パターンへの違和感だったかもしれない。
私は汚れに気づいた瞬間、何の疑問も持たず、反射的に「避ける」ことを選んだ。誰かが片付けるだろう、駅員が掃除するだろう、自分には関係ない。そんな前提が、無意識のうちに働いていたように思う。
しかし、彼女は違った。汚れに気づいた瞬間、「自分が拭く」という選択肢を、迷わず選んだ。顔をしかめることもなく、誰かを待つこともなく、それが当たり前であるかのように、ただしゃがみ込んで拭いた。
一緒に床を拭きながら、私は彼女の横顔を見た。彼女は何も特別なことをしているつもりはなさそうだった。ただ、目の前の汚れを拭いているだけ。
この数分間の出来事が、なぜこんなにも心に残るのだろう。
それは、彼女が特別なことをしたからではない。彼女にとっては当たり前のことが、私の中にはなかったからだ。
私が慌てて隣にしゃがんだのは、床をきれいにすべきだと思ったからではなかった。傍観者でいることに、急に居心地の悪さを感じたからだ。それに気がつくと、自分がしゃがんだその理由もまた情けなく思えた。
私は、いつから「避ける人」になったのだろう。
子どもの頃は、もっと素直に動いていた気がする。汚れていたら拭く。困っている人がいたら助ける。そんな単純な行動が、いつの間にか、複雑な判断を伴うものになっていた。「これは自分の責任か」「誰かが見ているか」「恥ずかしくないか」。そんな無意識の計算が、行動の前に立ちはだかるようになっていた。
そんな計算をしていないように見える彼女の純粋さが、私には眩しかった。
自分がどんな人間で、どんな選択をして、どんな「当たり前」を持っているのか。それを静かに、しかし鮮明に突きつけられた。



















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