悩んでコケて挑戦して 哲人経営者、最後の勝負(中) 小林喜光 三菱ケミカルホールディングス社長
<(上)より続く>
異動を願い出、84年4月、半導体研究所(後の薄膜研究所)に移った。こちらはハードディスクや光ディスクなど記憶媒体の開発拠点だ。有機物の色素に光を当てると電子を放出するのが光ディスクの原理。小林の博士論文は、ガラス質に放射線を当てて電子をはじき出し着色する研究だった。原理は同じだし、第一、記憶媒体なら勝負も早い──。
87年、光ディスクのグループリーダーになった小林に大仕事が巡ってきた。IBMから初めてMO(光磁気ディスク)のサンプルを受注したのだ。ところが、発注が年の暮れなのに「1月15日に納入しろ」。
研究所としては前代未聞、3交代の24時間態勢を組んだ。プロパーの研究員を元旦出勤させても、まだ足りない。水島やつくばの工場から若手を召集し、10日間で基礎をたたき込んで現場にぶち込んだ。
当時、世界最大のIBMに納入することは、自分たちの商品が世界一になる突破口になる。「俺たちの商品で世界を席巻しよう。大きな志とロマンを若者が感じてくれた。リーダーが時代の風を感じ、情熱を持って決断したらついてくるんですよ」。
94年、記憶材料事業部グループマネジャーとして研究所から本社へ異動した。そこから先が煉獄の日々である。96年に事業部長と子会社・三菱化学メディア社長を兼任し、記憶媒体全般を担当。90年代後半、その記憶媒体部門は海外勢の猛攻にさらされ、1000億円以上の累積赤字を積み上げた。
2000年暮れの経営会議。事業部長の小林は最後通告を受けた。「1年で売上高利益率5%を達成せよ。できなければ、すべての記憶媒体事業から撤退する」。無茶苦茶だ。足元は400億~500億円の売上高に対し50億円近い赤字なのだから。