幻に終わった「山形の私鉄」、岡山で眠る電車の謎 戦後に地方で相次いだ「国鉄並行私鉄」計画とは?
蔵王高速電鉄の本線は、着工後しばらくは順調に用地確保と工事が進んでいたようだ。同社が国に提出した1950年末時点の工程表によると、進捗率は用地が95%、土木工事が72%、橋梁が50%、駅施設が40%に達している。また、1950年7月には蔵王高速電鉄が合計5両の車両設計認可を申請。日立製作所に車両の製作を発注した。
しかし、その後は工事が進まなくなり、蔵王高速電鉄は完成延期の申請を繰り返すようになる。1951年1月6日に蔵王高速電鉄が提出した工程表には「経済情勢の急変に伴い資金調達が意の如くならず遅延せしため」と記され、同年7月2日提出の工程表でも「資金調達不如帰による工事中止状態のため」としている。支線に至っては未着工のままだった。
『蔵王今昔温泉記』によると、会社設立時の払込資金が尽きて増資に応じる者も少なく、建設会社への支払いが滞っていたという。いわゆる朝鮮特需による資材費の高騰なども背景にあったと思われる。
「発注キャンセル」した電車は岡山へ
こうしたなかの1953年4月5日、岡山県玉野市では宇野駅から西に延びる備南電気鉄道が開業。モハ100形電車3両が導入されている。実はこの3両、蔵王高速電鉄が発注した5両のうちの3両といわれている。発注がキャンセルされたため備南電気鉄道に売却されたらしく、この時点で蔵王高速電鉄は事実上中止されていたわけだ。計画が正式に廃止されたのはさらに7年後、1960年11月15日のことだった。
ほかの国鉄並行私鉄も、開業したのは筑豊電気鉄道の黒崎―筑豊直方間と弘前電気鉄道の大鰐―中央弘前間で、どちらも部分的な開業に終わっている。加越能鉄道と岡山急行電気鉄道は全線が実現しなかった。なお、弘前電気鉄道は開業後の経営が不振で、1970年には同じ地域で鉄道を経営していた弘南鉄道が大鰐線として引き継いだ。しかし同線は1970年代半ばから利用者の減少が続き、2027年度末には運行を休止する予定だ。



















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