幻に終わった「山形の私鉄」、岡山で眠る電車の謎 戦後に地方で相次いだ「国鉄並行私鉄」計画とは?

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青森県では、奥羽本線・五能線と競合する大鰐―弘前―板柳間の計画を弘前電気鉄道が申請し、蔵王高速電鉄と同日に免許を取得。1950年には福岡県の筑豊電気鉄道が、鹿児島本線と競合する黒崎―直方―博多間の免許を取得している。

筑豊電鉄 筑豊直方駅
筑豊電気鉄道の終点、筑豊直方駅。どん詰まりの高架駅だが、これは国鉄筑豊本線をまたいで博多まで延びる計画だったためだ(筆者撮影)

続いて1954年、加越能鉄道(現在の加越能バス)が北陸本線と競合する富山―高岡―金沢間の免許を取得。岡山急行電気鉄道も山陽本線に並行する岡山―倉敷―玉島間の免許を取得した。弘前電気鉄道はのちに支線の免許を取得したが、それ以外は支線の免許を取得していない。

国はなぜ、国鉄線に並行する地方私鉄の計画を認めたのか。その理由の一つとして考えられるのが、当時の国鉄線の状況だ。

国鉄の手薄な地域輸送を補完

このころの国鉄線、とくに奥羽本線のような幹線は長距離の都市間輸送列車が主体。通勤通学など短距離の地域輸送を担う普通列車の運行本数は少なかった。国鉄監修『時刻表』1958年11月号(日本交通公社)によると、奥羽本線・山形―上ノ山(現在のかみのやま温泉)間は普通列車の本数が下り14本・上り16本。時間帯によっては運行間隔が2時間近くも空いている。

そこで、各地の有力者らが地域交通の不便を解消するため、国鉄線に並行する私鉄を整備して高頻度運行しようと考えるようになった。国としても国鉄線の地域輸送が手薄であることは理解していたはずで、そのため戦後は方針を転換し、国鉄の輸送力を補完するため並行路線の計画を認めることにしたのかもしれない。ほかにも終戦直後の占領統治下で国の権限が流動化していたことも背景にありそうだ。

仮にこの推測通りだとしたら、今度は蔵王高速電鉄が支線を追加した理由とつじつまが合わなくなる。国の方針転換が蔵王高速電鉄の計画を認めたあとだったのか、あるいは蔵王高速電鉄の発起人が国の方針転換を知らずに支線を追加した計画で申請してしまったのだろうか。

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