神戸では知る人ぞ知る、阪神電車「創業の立役者」 親子で社長を務めた「小曽根家」との深い関係
小曽根喜一郎と長男の小曽根貞松(たけまつ、1879〜1951)は親子2代にわたって阪神の社長を務めた。喜一郎は1927年の5月6日に社長就任。同年10月6日に辞任したと記録されている。
神戸・大阪の2大都市を高頻度で結ぶという事業モデルを生み出したとされる三崎省三の後を受けて社長に就任したのは、国鉄や阪急との競争が激化する中で、専務人事を巡って経営が混乱したためのようだ。
創業時から会社に関与した喜一郎は、いわば長老として混乱の収拾を求められたとみられる。すでに70歳だった喜一郎には堪えたようで5カ月と短期間での退任になった。
小曽根貞松が社長に就任したのは戦後の復興期。すでに1932年には監査役に就いていたが、取締役を経て1946年10月に社長に就任した。その時すでに67歳で、当時としては高齢だった。
長男の貞松は戦後復興期に社長
阪神内燃機工業の初代社長や神戸瓦斯社長としての手腕を買われたとみられ、インフラ復興に尽力した。1リーグ制時代の1947年に大阪タイガース(現在の阪神タイガース)が公式戦優勝。1948年に始めた航空代理業は2008年まで続いた。戦後の復興を形にして新規事業も立ち上げたうえで1950年、体調不良のため社長を辞任した。



















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