老中・松平定信が徹底的に排除した江戸役人の「無駄」と「賄賂」 。登城、文書作成、衣服…煩雑なルール変えた"廉恥"の政治とは

世相は混沌としていた
天明7年(1787)6月、陸奥白河藩主であった松平定信は、徳川幕府の老中に任命されます。その頃、米価は上がり、打ちこわしが江戸でも起こるなど、世相は混沌としていました。
定信は、そうした状況を「御艱難の御時節」と自叙伝『宇下人言』で表現しています。そうして、艱難の時であるからこそ「人の臣たるもの、心力を尽くすべきである」という考えのもと、老中(首座)職を拝命するのでした。
時は、11代将軍・徳川家斉の治世です。定信は老中となったのですが、彼の目前には問題が山積していました。
まず、彼は当時の政治は緩んでいるとの認識でした。諸代官は自らの得手(都合のいいように行動する、我儘)に振る舞っている。下の者の喜ぶことを言う政(まつりごと)になっている。更には、役人は贔屓、賄賂によって昇進している。
定信が老中に就任する前に、老中として権力を持っていたのが、田沼意次。定信は自叙伝の中では「田沼主殿頭」と記していますが、現状においては、意次が推薦した者、息のかかった者が多く、そうした人々は「不正」をしていると定信は書いています(不正をせざるは稀なりとの表現もあります)。
定信は政治の現状を以上のように認識し、それを改めようとしたのですが、急激な改革は人心を動揺させ、かえって、現状を悪化させます。
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