老中・松平定信が徹底的に排除した江戸役人の「無駄」と「賄賂」 。登城、文書作成、衣服…煩雑なルール変えた"廉恥"の政治とは

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現に人々(役人たち)は定信の登場によって「今後はどうなるのだろう」「明日はどうなるか」と不安に慄いていたようです。役人らが不安定なままでは、よい政治などできません。

よって、定信は将軍・家斉にその旨を言上。諸役人を黒書院に召して、将軍から「これまでの将軍様のお考えを継いで、政治を行っていく。よって、いずれも精を出せ。安心せよ」と直々に声をかけるようにしてもらったのでした。

また書き付けでもって「もう過ぎ去った些かの過失は、皆、取り捨てる」ということを示します。これにより、諸役人たちは、心を安んじたようです。

節約こそが繁栄のもとになる

さて、天明3年(1783)頃より、幕府の「収納」は減じていたにもかかわらず「入用」は次第に超過していました。給与は減っているのに、それを気にせず、どんどん金を使っているような状況です。

その状況を見た定信は「節倹」(節約)こそが繁栄のもとになると考えます。定信は、万石以上の大名も、それ以下の大名も、皆、奢り(贅沢)に慣れていると見ていました。衣服や玩具に至るまで「風流華美」を尽くしている。町々には「遊手の徒」が多く、日々、新たな物売りが生まれている。

定信は「節倹」と何事も「簡易」なことが必要であると主張したのです。役所の文書類、筆紙の無駄遣いも「おびただし」い状態でした。同じ書付け、帳面を3通りも、4通りも書いて出すという無駄をしていたようです。よって、役人の手間もかかりました。後に無駄を省くため、書付け数は減じられることになります。

無駄は筆紙の問題だけではありません。例えば、老中が登城する時には、月番の若年寄だけでなく、その他の若年寄も残らず登城する必要がありました。また、老中も、非番の若年寄が残らず登城する際は、そろって登城する風習があったのです。江戸城までの屋敷の遠近もありますので、そろって登城するには一工夫が必要でした。遅速を一致させるため、例えば、同僚のもとに付人を派遣したり「誰々が登城した時には、何々(赤や白など)の扇を開く」などの「合図」をしたりしていたのです。

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