「都民への罰」との声まで…首都圏に増殖中「まいばすけっと」はなぜこうも嫌われるのか? それは「強さ」の裏返しだった
商品種を極限まで絞り、スーパー並みの品目を狭い店内で展開する。狭くても出店ができるから、コンビニの跡地のような小さな土地でも積極的に出店することが可能になる。そして、都心部を中心としたドミナント出店を達成して効率のよい物流網を作り、程々の安さを実現する。それが、まいばすけっとの戦略である。

そして、その戦略はビジネスとして首都圏近郊の生活に最適化しており、成功をおさめている。特に関東郊外に住んでおり、免許を返納した高齢者などにとっては、車なしでも行ける範囲にあるその存在は、非常に貴重である。
こう考えると、むしろ、まいばすけっとが経営的に成功して私たちの生活に浸透してきたからこそ、それに対する「嫌悪」ともいえる反応が出てきたのかもしれない。「まいばすが嫌われている」という言説の裏には、それが我々の生活に欠かせないものになっているという事実が張り付いている。
「嫌悪」は小売店の通過儀礼だ
先ほど、まいばすけっととドンキに対する反応が似ている、という話をしたが、こうしたチェーンに対する「嫌悪」は、歴史を鑑みれば、多少の違いはあれど、あらゆる場面で起こってきたことである。
例えば、1960年代から爆発的にその数を増した初期のイトーヨーカドーやダイエーのような総合スーパーマーケット、さらに2000年代に増殖したイオンモールなどもこうした「批判」の対象になってきた。

いずれも消費者に便利な選択肢を提供する一方、景観の問題や商品品質の問題、また地元共同体を希薄にさせた、などといった観点で批判されてきた。ただ、それも、そもそもこれらの小売店が我々の生活に根付いていたからこその批判だったともいえる。
その意味では、こうした「嫌悪」は、あるチェーンなり小売店が全国に広がるときに通らざるを得ない「通過儀礼」のようなものだといえる。思えば、ドンキだって「嫌悪」の時期を抜け、いまや日本の小売企業のトップをひた走る存在になった。「嫌悪」をうまく抜ければ「浸透」が次に来る。
まいばすけっとに話を戻すなら、問題は、まいばすけっとがこの「通過儀礼」を経たあと、どのように消費者の心を繋ぎ止めておくことができるのか、である。
ダイエーやイトーヨーカドーは確かに便利だったが、時代の流れの中でショッピングモールの便利さに負けた。ダイエーは経営破綻しているし、イトーヨーカドーが大量に閉店したことは記憶に新しい。消費者の要望に十分に応え続けることができなかったのである。そんなショッピングモールも、そのいくつかが廃墟に近い「デッドモール」になる例が増えてきた。「嫌悪」から「浸透」に至ったあとも、時代の変化、消費者の変化を読み続けなければ萎んでしまうのは、当然のことである。
まいばすけっとの例を見ていると、少なからず、その製品品質やサービスなどの「内在的要因」で消費者から嫌われている側面がある。一朝一夕にそれが解決されることは難しいだろうが、そのままだったら、せっかく「通過儀礼」を通っても沈んでいくだけだ。
いま、まいばすは絶賛「通過儀礼中」である。では、その後はどうなるか? まいばすが「浸透」することはあるのか。その後の展開も含めて静観していきたい。
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