「二度も幻と化した」広島と島根を結ぶ鉄道の謎 山あいに並ぶ2つの橋、どちらにも列車は走らず
このため、今福線は長大トンネルで中国山地を貫く直線的なルートで整備することに。戦前に比べトンネルの掘削技術が進歩し、トンネルを建設しやすくなっていたことも背景にある。浜田―石見今福間は旧線が19.4km(山陰本線への乗り入れ区間を含む)なのに対し、新線は7km以上短い12.2kmになった。
1974年には、戦前に未着手だった県境部の三段峡―石見今福間41.9kmの工事実施計画が認可されて着工。この区間も長大トンネルが連続する直線的なルートを採用しており、広島―浜田間の所要時間は3時間とされた。
さらには可部線を抜本的に改良し、広島―浜田間の所要時間を55分とする構想もあった。国鉄在来線の2本のレール間隔(軌間)は新幹線より狭い狭軌(1067mm)だが、大幅な時間短縮を図ることから「狭軌新幹線」と呼ばれた。

「2回目」も国鉄経営悪化で中止に
こうして今福線の工事は三段峡―浜田間の約54kmで用地確保が12%、路盤工事が6%まで進み、とくに浜田―石見今福間の新線はトンネルや橋梁などが半分ほど完成した。
しかし、1970年代の中ごろには国鉄の経営悪化が抜き差しならないところまで来ており、国鉄ローカル線の存廃に加え工事中の国鉄新線の見直しが浮上する。国鉄新線は1979年度時点で想定されていた輸送密度が4000人未満の場合は原則として工事を凍結することになり、輸送密度が700人とされた今福線も1980年に工事が凍結された。
この「700人」という数字は工事が進んでいた部分のみ開業した場合の想定だったから、全線開業して広島―浜田間を直通する列車が運行されるなら、もっと大きくなっていたに違いない。ただ、山陽地方と山陰地方を結ぶ既開業の国鉄線の場合、山口線で3290人(1977~1979年度)。4000人を超えていたかどうかは微妙なところだ。
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