親鸞が生きた時代はいわば日本のルネサンス--『親鸞 激動篇』を書いた五木寛之氏(作家)に聞く
──そうだったから、宗教家が輩出したのですか。
地獄という観念が人々の間に浸透していった。10世紀には、源信が『往生要集』で目に見えるように地獄の恐ろしさを描き、辻芸人や講釈師が絵巻物を作って、街頭で血の池地獄、針山地獄を説明する。寺では壁に掛けた巨大地獄図を絵解きしつつ聞かせる。よい行いをしなければ地獄に行くぞ、と。
普通の人たちは戒律を守ることも善行をすることもできなかった。生きて地獄のような暮らしを繰り返しつつ、死んだらまた地獄。そういう絶望感の中で、時代は混乱していた。その時代に法然や親鸞は、戒律を守れなくても殺生をしても、地獄へ行かなくて済むと言い出したから、大スキャンダルになった。下々の者といわれていた底辺の人々に対して、仏の道──まだ仏教という言葉はない、これは明治から──を信ずれば地獄に行かなくて済むと言い出した。
──ストーリーのどこまでが歴史的事実なのですか。
親鸞は日本で名を知られた人々の中で、最も自分のことを書いていない一人。書いていないから何もわからない。「親鸞非実在説」もあったほどで、妻の恵信の手紙が発見されて、実在が確定したのが大正期だ。だから、書きづらい人物であるが、小説家としては自由に想像力を働かせることができる対象ともいえる。
前作の『親鸞』以来、当時のことを徹底的に調べ、事実を基にした。たとえば、日本には奴隷制度はないというのが定説だったが、調べると、奴婢(ぬひ)というのがいる。男の奴隷が「奴」で女が「婢」。奴婢の体に烙印を押したり、片目を傷つけたり、さらには手足の片方を折って逃亡できないようにして、牛馬のようにこき使う。そして売買する。市が立ち、財産として相続もできる。これは当時の常識だったが、日本ではこの歴史を学校で教えない。