復活した「伝説的下着ショー」への強烈な違和感 ヴィクトリアズ・シークレットの大きな誤解
スモークマシンのせいかもしれないし、フィナーレで天井から降り注いだピンクの紙吹雪のせいかもしれないし、モデルのドウツェン・クロースがクリスタルのストラップをつけた小剣をランウェイに突き刺したせいかもしれないが、結局のところ、全体が一歩前進したというよりは、陳腐な高校の同窓会という印象だった。
かつての人気者たちが一堂に会し、往年の装いに身を包み、ノスタルジーの靄の中で、あるいは外界の複雑な現実の中で(あるいは単にディスコの照明の中で)、見かけによらずバラ色のピンクの輝きを放った瞬間を追体験するような。
しかし、それはまた、古いプロムドレスを着た人々でいっぱいの部屋を見るのと同じ反応を促した。私たちはいったい何をしているんだろう、と思ってしまったのだ。
スケスケ衣装の下着ショーはやっぱり時代遅れ
現時点ではどのようなスタイルになろうと、誰がカーテンの後ろにいようと、ヴィクトリアズ・シークレットのショーはたんに別の時代の遺物にすぎない。
だからといって、女性たちが下着を、いや、ヴィクトリアズ・シークレットの商品を楽しめない、ということではない。ただこういう特別な見せ方はもうやめるべきだ、ということだ。レースの下には、本当に消し去ることのできない歪んだ歴史が横たわっている。
1つだけ秘密でないことがあるとすれば、それは、サイズや年齢に関係なく、ランウェイをスケスケの衣装で練り歩くことは、エンパワーメントのためではないということだ。たとえそれが平等な機会であったとしても。
そして、世の中に存在する人の数だけ、セクシーに対する幻想や定義があり、その多く(もしかしたらそのほとんど)は翼を伴わないということだ。
(執筆:Vanessa Friedman記者、ファッション評論家)
(C)2024 The New York Times
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