マーク・ザッカーバーグの寄付、驚愕の「使途」 公立校改革に使われるはずだったが…
学校改革運動が測定可能な結果と「経営的管理」に焦点を当てること自体は称賛に値する。だが指揮チームがビシネス書に出てくるような文句を操り、教育という生態系への繊細な配慮を欠いたまま、原則を当てはめていくのをみると背筋が寒くなる。一般論にしても、ニューアーク市の公立校に対してもそうなのだ。
劣悪な環境に置かれる子どもたち
ニューアークでは多くの子供が凶悪犯罪や家庭不和、赤貧にさらされ、筆舌に尽くしがたいトラウマを抱えてきた。学校改革運動は高い志を掲げ、「応急手当はすべきではない」と言いながら、その影響を被る子供たちへの配慮が足りなかった。子供たちは何よりも生活の安定を必要としているのに、この環境下で2億ドルをどう使えば最良なのかもろくに考察されなかったのである。
実際に改革の責任を託されたのは、改革派の人材だが過去の業績はあまり芳しくなかった。
州知事クリス・クリスティから州教育委員長に任命されたのは、弁護士のクリス・サーフ。8年間に及んだエジソン・スクールズ社での経験を買われたのだが、(公立校を株式会社が運営するという)その改革策は財務運営の失態や不正会計により崩壊していた。サーフはニューアークで人々の怒りが頂点に達した2014年3月に職を去る。移った先は(メディア王)ルパート・マードックの教育関連企業アンプリファイだ。しかし1年も経たないうちに辞めたと思ったら、その直後に親会社のニューズ社が赤字部門として売却する意図を公にした。今年7月、サーフはアンダーソンの後任として市教育長に任命された。
本書では劇的な対立の構図がたくさん描き出される。何としてでも公立校を守ろうとする人たちと、チャーター・スクールや改革の支持派とがぶつかり合う。ここで重要な緊張関係も浮き彫りにされていく。片や、主張を通す、前例を作る、あるいは特権を守ることを望む人たちと、片や、一人ひとりの生徒の人生において有意義なことをするため、往々にして予測不可能な難題に献身的に取り組む人たちとの間の緊張関係だ。
子供たちのために結束するが……
興味深いことに、この二者対立はしばしば意外な形で公立校対チャーター・スクールという構図を超越する。本書に登場する人々の中で読者が共鳴するのは、ニューアークで最も弱い立場にある家庭それぞれの将来に向けて、希望をもたらすために、改革派であれ労組側であれ、社会通念に疑問を投げかける意欲をもつ人々だ。
本書の冒頭そのものが希望をもたらす場面で始まる。市内の最も問題が多い地区を、深夜にクリスティ知事(共和党)と当時のコーリー・ブッカー市長(民主党)が一緒に車でまわる。そうして大志を抱く政治家同士、ニューアークの公立校のためにはどんな政治的なコストがあろうと「やるべきことをやる」と超党派で合意する。
だが両者ともに、その後はほかの優先事項や検討課題に気を取られていく。本書によるその描写は容赦ない。きわめて優秀な公僕である2人とも確かな善意を持ちながら、結局は有意義な進歩を生み出せないということに読者は悄然とする。
家庭裁判所には「子の最善の利益」という基準がある。それが親たちのいかなる権利の主張や契約関係よりも優先される規範となる。理屈で言うのは個別の対応より簡単とはいえ、子供が潜在能力を存分に発揮するための力を最重要視するという、単純明快な発想だ。残念ながら公教育の運営については、そういうルールが政治家、労働組合、学校管理職、そして親にも適用されていない。
教育の在り方を決めるために、私たちはこの基準からどれほど遠ざかってしまったのか、また、この基準を満たすのは善意だけでは足りないということについて、警鐘を鳴らす名著である。
(執筆: コロンビア大学ビジネススクール教授Jonathan A. Knee、 翻訳: 石川眞弓)
© The New York Times 2015
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