井上礼之・ダイキン会長兼CEO--「あかんたれ」が空調世界一、人好き・帰属感・衆議独裁《上》
就任前、らち外だった社長のすごみは二つある。一つ、「失われた20年」に逆行して異数の高成長を実現したこと。もう一つ、多くの大企業が「日本的経営」をかなぐり捨て、希望退職という名の首切りに走る中、ダイキンは「人が基軸」の人本主義の旗を高く掲げ続けたこと。雇用にはいっさい手をつけず、グローバル化を成し遂げたダイキンは、やればできる日本的経営の証明でもある。
井上はいまだに、抜擢の理由を聞いていない。交代から1年と経たず山田が急逝したからだ。
「人事理念を継承してくれるということで選んだのかなあ。私みたいな“同やん(同志社大卒)”選ぶ理由いうたら、それぐらいしかない」。
戦後の一時期、ダイキンは満身創痍の「ボロキン」だった。48年秋から1年半の間に3回の人員整理を行い、700人以上の従業員を解雇した。最大規模の2回目の計画を策定したのが、ほかならぬ山田である。
山田は深く悩んだ。その猛省から二度と人には手をつけないことを決意する。「社員は縁あって同じ釜の飯食う仲間」「人員整理をするときは私が辞めるときや」。人を基軸とし、帰属意識を大事にするダイキンイズム。人事部門28年の井上はこのダイキンイズム継承の適任者である。
だが、11人抜きの理由は、それだけではない。山田は便箋に走り書きした「統領之心得」を井上に手渡している。「事にあたり側近はこれを持たざるべからず。側近を選ぶに法あり。人、これを是とするや否や」。
最後の5年間、山田は側近に取り囲まれ、裸の王様になっていた。部門長らが派閥を作り、さながら群雄割拠状態。この経営スタイルを是とするか。否とするなら創造的に破壊せよ。これが、井上に託したもう一つのミッションではなかったか。
山田の思いがそのとおりなら、井上は迅速に使命を遂行した。ルームエアコン事業の再建、首脳陣が共産国として毛嫌いした中国への進出。若手との合宿を繰り返し、井上が打ち出したのは「心底尊敬していた」山田の路線とは正反対の選択だった。