企業は2000年以上前から存在し、環境や背景のまったく異なるさまざまな社会の中で設立されてきたが、つねに国家やその利益と密接に結びついていた。
古代ローマでは、「国家の屋台骨」と見なされ、急速な拡大を続けた国の公共事業を支えた。
ルネサンスのフィレンツェでは、貴族や、聖職者や、新興階級の商人たちの野心的な計画の資金源として活用された。
エリザベス朝の英国では、王国の領土を拡大し、新しい市場を開拓するために創設された。
米国の南北戦争時代には、北軍の救世主と目され、大陸横断鉄道の建設を通じて国民の再統合に貢献した。
要するに、企業は社会に益するために存在してきたのであって、社会を害するために存在してきたのではないということだ。
企業は悪徳の道に進んでしまうのか?
しかし、企業が社会の利益を守るために作られたものだからといって、実際にもそうするとは限らない。
歴史上にはそのような本来の務めを果たさなかった企業の例がいくらでもある。共和政ローマの徴税を請け負っていた企業は、最後には、領民を奴隷にし、元老院に腐敗を招いた。
メディチ銀行は、ギルドから政治的な権力を奪い、メディチ家の個人的な野心のために銀行の資産を流用した。
東インド会社は、インドからボストンまで、世界各地で英国を争いに巻き込んだ。
南北戦争後、ユニオン・パシフィック鉄道は米政府をだまし、貧しい農民たちに法外な運賃を課した。
企業が最後には必ず利欲に目がくらみ、悪徳の道に進んでしまうというのは避けられないことなのか。企業の歴史とは、結局のところ、大きな期待と失望の繰り返しでしかないのか。企業が世界という舞台で果たす役割について、社会はだまされるだけなのか。
そんなことはない、というのがわたしの考えだ。歴史を通じて、企業は人的労力を生産的な事業へ振り向けるのに際立った力を発揮してきた。
ヘンリー・フォードが自動車を開発し、それから20年もせずに、1チームで1日1万台の自動車を生産できる体制を築いたのは、まさに偉業と呼ばれるのにふさわしい。
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