吉田さんの20代を振り返ると、仕事と子育てを両立させるロールモデルや、出産リミットの話を含めた産前産後の実態についての情報、女性の人生の選択肢が、今よりも乏しく少なかった状況が垣間見える。
バブル崩壊が深刻な社会問題と認識され始めた1993年、吉田さんは慶応義塾大学を卒業した。兄は家業を継ぎ、姉は家事手伝いと、兄弟が誰も就職活動をしなかったこともあり、吉田さん自身も企業のコマにはならない自営業の父の働き方に影響を受けて「自分の自由になる時間を優先する働き方」を選択。予備校教師や大学研究室の秘書の仕事に就いた。
だが、いざ仕事を始めると、複数の職場に縛られるフリーター生活は意外にも不自由だった。25歳で大手自動車メーカーの契約社員となり、定時に出退勤するOL生活が自分の性に合うことを初めて知る。
「自分自身の人生の展望はぼんやりしたまま。20年前はまだ、出産年齢にリミットがあるという情報も知識もなく、子どもを生んで仕事を続ける先輩も社内にはいなかった。寿退社する人が大半でした」
27歳で結婚。将来のライフプランをふたりで確認しあうまもなく入籍したが、夫は3人兄弟、吉田さんも4人兄弟だったことから「子どもがいっぱいいたら楽しいね」というイメージだけは共有していた。
まさかの“産後うつ”に見舞われる
第1子を身ごもったのは結婚4年後。妊娠5カ月を機に、30歳で迷わず退職して専業主婦に。当時の出産は「怖い」「痛い」などネガティブなイメージが強く、吉田さんは友人から借りた自然出産のビデオに目を奪われる。出産後に自宅で穏やかにほほえむ母子の映像が強くインプットされたのだ。何のビジョンもなかったところに“理想のお産”だけが明確にイメージされ、以降、吉田さんはその実現のため、懸命に体づくりの情報を集めては実践する。しかし第1子出産後、吉田さんは産後うつ状態に見舞われてしまう。
「周到な事前準備とシミュレーションのかいあってか、出産自体は安産でした。でも”出産がゴール”だったんです。いざ生んでみたら、自分の体がこんなにもあちこち痛くて、しんどくなるなんて……」
理想の出産を思い描いてきただけに、予期せぬ産後のリアルに打ちのめされた昼は家で乳児と2人きりで孤独。子どもの誕生で、仕事のやる気スイッチが入った夫の帰宅は深夜になり、いつしか夫婦の会話もなくなった。でも自分は専業主婦だから、家計を支える夫の帰りを起きて待たねばならない。子どもの夜泣きで連日寝不足でも、夫に本音を言うことがはばかられる。無理をおして頑張り続けるうち、心と体が悲鳴をあげた。
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