カネボウとJAL、今だから知りたい明暗の裏側 ともに大型倒産、その後は何が違ったのか
これが、後の売上高2兆円近い京セラ社長の言葉であれば、なんの不思議もないかもしれない。だが、その当時の京セラは社員数も900人ほどの、京都の一中小企業でしかない。その40歳そこそこの若い経営者が、売れればいいというのではなく、あくまでもお客様第一に考えていたことに筆者は強く心を打たれた。
JAL再建に成功した稲盛の経営哲学
2010年2月1日、稲盛はJAL会長に就任した。そのとき最初に感じたのは、親方日の丸の意識の強さであり、商売感覚の欠如だったという。「それまでのJALの社風、社員の意識を根本から変えてもらわなきゃだめだ」と思い、まず、選抜した50名ほどの幹部社員を集めて話をすることから始めた。
そこで稲盛は、27歳で京セラを興してから、自分なりにつくり上げてきた経営哲学などを語った。「謙虚にしておごらず、さらなる努力をすべし」「経営者は、物事を損得で考えてはならない。善悪で判断すべきである」「故に、経営者はまず人間性を磨かなければならない」などと説いた。
当時、稲盛の下でJAL社長を務めていた植木義晴が、日経新聞(2022年9月4日付)で次のように語っている。
「幹部に対してはここまでやるのかという一番厳しい叱り方をする。会議が終わると立てなくなるくらい。(略)でもそれは本物の情熱と愛情を持っての叱り方。稲盛氏の人徳だからこそ、ついていけた」
それは確かにJALを再建したいという強い情熱の表れだったのだろう。実際、稲盛は優しい一面も見せている。パイロットやキャビンアテンダントの一人ひとりにもよく話しかけたという。
あるとき、稲盛が機内の状況を視察した後、タラップを降りてくると、航空機の横に10人ほどの整備士が整列していた。普通の経営者なら整備士を横目で見て通り過ぎるのを、稲盛は、整備士一人ひとりと握手を交わすという愛情のこもった対応をしたので、社員の士気がさらに高まったとされる。厳しい叱責をするだけではなく、そこには常に、人間としての稲盛の優しさ、愛情が潜んでいるのだ。
また、こんな話もある。JALが提携先を決めるにあたって、国土交通省の意向どおり「デルタ航空」という意見が多かった中で、稲盛は、「JALはこれまで、アメリカンエアラインズといろいろなことを一緒にやってきたのだから」と、同社との提携関係を維持することを選んだ。
かつて稲盛は、筆者に「京セラに最初に融資をしてくれた京都銀行の恩は一生忘れない」と、よく言っていた。それを証明するように、JALが倒産後、再上場するときに、JAL株式の購入を京都銀行に依頼している。
倒産直後から、JALの再建は不可能だといわれてきた。しかし、稲盛新体制の下で、徹底した事業構造改革と経営の合理化を推進し、JALは世界でもトップクラスの高収益会社に生まれ変わる。稲盛は再建に成功しただけでなく、2年8カ月という短期間で2012年9月19日に、東京証券取引所への再上場にも成功する。その手腕は、見事としか言いようがない。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら